筋が通っている   

土方与志

きょうは演出家で築地小劇場をつくった 土方与志(ひじかた よし、本名:久敬 ひさよし)の誕生日だ。1898(明治31)年生誕〜1959(昭和34)年逝去(61歳)。

東京都の資産家で、明治政府の宮内大臣・伯爵 土方久元の孫として生まれた。父が与志の生後3か月で自殺したため、母方の加藤子爵家で育てられた。彼の屈折した思想は、この幼児環境にあったのかもしれない。

1918(大正7)年、三島章道(しょうどう、演劇評論家貴族院議員・日本ボーイスカウト創設)の妹 梅子と結婚した。学習院高等部を卒業後、東京大学文学部国文科へ入学するが、1921(大正10)年 中退した。

東京・小石川の自宅に「模型舞台研究所」を作り、小山内薫に師事。伊藤喜朔、千田是也らとの交友が始まった。1922(大正11)年24歳の時 ドイツへ留学して演劇の研究をした。1923(大正12)年、関東大震災の報せを聞いて帰国。
1924(大正13)年26歳のとき小山内薫とともに日本新劇のメッカといわれた日本最初の現代劇場「築地小劇場」設立に私財を投じて尽力した。ここで、チャベック、ストリンドベリロマン・ロランバーナード・ショーなど西欧の前衛的な演劇を上演し、新劇確立の基礎をつくった。

築地小劇場が分裂した後、丸山定夫山本安英らと「新築地劇団」を組織し、社会主義リアリズムを標榜した演劇活動を推進。生涯250作品以上を演出した。
軍部のプロレタリア運動弾圧が激しくなり、1932(昭和7)年検挙され、1933(昭和8)年35歳のとき日本プロレタリア演劇同盟の代表として妻とともにソビエトに行き活動した。モスクワで外国労働者出版所に勤務していた。

1937年、スターリン粛清により国外追放になった。その後1941(昭和16)年まで欧州・ソ連に亡命。帰国したが、4年間投獄を余儀なくされ、爵位を剥奪された。

第二次大戦後は、再び新劇界で活躍するとともに、「舞台芸術学院」を創設し副学長に就任するなど、後進の指導や演出にあたった。シェークスピア劇の演出、スタニスラフスキー=システムの紹介をはじめ、広範な文化活動を行なった。
1957(昭和32)年59歳の時、新劇代表団の一員として訪中した。

敗戦の時、土方は宮城刑務所にいた。米軍の情報部員が来所して「ここに政治犯はいるか」と質問した。所長は「いない」と答えたので、通訳の土方はそのまま“ノー”と返事をした。後日、この情報官が「キミは政治犯じゃないか。なぜ“ノー”と答えたのか」と問うと、土方は言った。「私は通訳だから所長の返事を正確に伝えた。私見を問われたら無論“イエス”と答えた」。情報官は「なるほど、日本の政治犯筋が通っている」と関心したという。

土方与志は、伯爵の家に生まれながら、幼少期の生活環境からか、プロレタリア運動の方向に走るが、かしこまった生活よりも刺激的な生活を選んだと言うことかもしれない。そして爵位も剥奪されるが、それがさらに左傾する要因になったに違いない。

企業においても、思い出したくない過去を持って入社人もいるだろうし、入社直後の人間関係などにより精神的な不安定になった人もいるだろうが、問題はこれから企業のために何をするかであり、過去がどうこうということではない。


土方与志に関する本
  なすの夜ばなし
  演出者の道―土方與志演劇論集
  土方梅子自伝 (ハヤカワ文庫 NF (120))
  築地小劇場から現在まで (千田是也演劇論集)
  築地小劇場
  銅鑼が鳴る―築地小劇場の思い出
  メザマシ隊の青春―築地小劇場とともに
  青春は築地小劇場からはじまった―自伝的日本演劇前史 (現代教養文庫 (1558))


   創立当時の「築地小劇場