一貫した情熱      

木村秀政

きょうは航空工学者、YS-11生みの親 木村秀政の誕生日だ。
1904(明治37)年生誕〜1986(昭和61)年逝去(82歳)。

北海道札幌市に生まれた。木村家は五戸町(青森県三戸郡五戸町 さんのへぐんごのへまち)の旧家で、父の秀実が北海タイムスの記者をしていたため、秀政は札幌で産声をあげた。満1歳になる前に一家は上京し、東京港区の青山に住んだ。自宅近くに練兵場があり、海外からやってくる「空飛ぶ機械」(フライング・マシーン)がデモンストレーションの場所にした。

秀政が初めて「空飛ぶ機械」を見たのは1911(明治44)年だった。山田猪三郎の山田式飛行船が、テスト飛行で故障し、青山練兵場に不時着し、たちまちヤジ馬にとり囲まれた。その群衆の中に7歳の秀政少年がいた。「強烈な印象だった。乗組員の姿は、まことにたのもしく、自分もあんな人になれたらと思った」(秀政)

秀政はその2カ月後に初めて飛行機に出会った。アメリカのカーチス機が見世物の巡業として目黒の競馬場へ飛んできた。秀政少年は祖父につれられ見物に行くが、風が強く、わずか数秒の飛行だった。秀政少年は、家へ帰ると、見た飛行機の模型を2枚のボール紙とマッチ棒で作った。
1913(大正2)年9歳の時の出来事は秀政にとって忘れ難いものになった。3機の飛行機と1隻の飛行船が青山練兵場にやってきた。なかでもプレリオ単葉機は、軽やかに離陸した。秀政少年は早速、家でプレリオ機の絵を描き、友だちに見せしゃべりまくった。

何と、プレリオ機が、空中分解して墜落。乗っていた二人の中尉が日本初の空の殉職者になった。「8歳の私にとって、どんなに大きな心理的影響を与えたかわからない。私と飛行機を結びつける決定的な役割を果した」(秀政)

1917(大正6)年、東京府立四中(現 都立戸山高校)に入るが、飛行機に対する夢はますます大きくふくらんだ。1920(大正9)年、ローマを出発した2機のアンサルド・スパ機が、未開の南方航空路を開拓しながら15,200キロを飛んで、代々木の練兵場に着陸した。
中学生の胸に「いつかは自分も」という夢となって広がっていった。

飛行機について、マニア的な興味から専門的なものに変わったのは第一高等学校時代である。少しづつ国産機が作られるようになり、飛行機工場が千葉県の東京湾にそった所にあった。1機づつ手作りする様子を一高生の秀政は見学に通い、見るだけではなく、色々と質問をした。秀政は、「飛行機に一生を捧げよう」と決心した。

1924(大正13)年、秀政は一高から東京大学工学部の航空学科に入学、さらに大学院に進んだ。父親が亡くなり、家計が苦しく、母が質屋通いをするほどだったが、メーカーへ就職せず、1929(昭和4)年25歳のとき、東大航空研究所に入った。

1934(昭和9)年30歳の時、航空研究所が長距離飛行記録を目指す航研機を試作することになった。秀政は設計担当を命じられ、1937(昭和12)年、航研機が完成した。翌年、木更津の海軍飛行場で11,651キロの世界新記録を樹立した。日本の飛行機が公認の世界記録を作ったのはこれが唯一のものとなった。

秀政は航空研究所技師の辞令を受けた。次の目標は、周回飛行でなく長距離記録を作ることだった。そんな折、朝日新聞社が、紀元2600年記念事業のひとつとして東京−ニューヨーク無着陸訪問飛行を計画した。機体の名前も、朝日新聞のAと紀元2600年の26をとって、A−26となった。

1942(昭和17)年にA−26は完成したが、その前年末に太平洋戦争が始まっており、ニューヨーク訪問は中止になった。しかし、2機作られたA−26のうち2号機は、戦火のなかを日本からドイツまで飛ぶという無謀な飛行を敢行することになった。1943(昭和18)年6月30日、東京都下の福生飛行場から極秘に飛び立った。東大助教授になっていた秀政は、航空研究所を代表して見送りを許可された。
A−26は5,300キロを飛び、7月7日消息を絶った。撃墜されたという情報もあったが、行方不明の原因は、いまもわからない。

1944(昭和19)年、A−26の1号機はあらためて周回飛行で記録を狙うことになり、16,435キロで世界記録を更新した。残念ながら戦時中だったためフランスにある国際航空連盟と連絡がつかず、公認記録とならなかったが、周回飛行の記録では、今日でもこれ以上のものはない。

敗戦の1945(昭和20)年に秀政は41歳で航空研究所員のまま東大教授になった。しかし、日本を占領したマッカーサー司令部は、日本が民間航空を含むあらゆる航空活動を禁止した。航空に関する研究までも、やってはならないことになった。
航空研究所は廃止となり、秀政は東大教授も辞職した。

「戦後の7年間、飛行機の仕事ができなくなり、絶望のどん底に落ちながら、航空再開の日まで耐えることができた。このときほど、私には東北人の血が流れていると感じたことはない。目先のきかないことは驚くほどだが、とにかく初志を貫徹してやまぬ粘り強さは大したものである。私は青森県人であることに誇りをもっている」(秀政)

1952(昭和27)年に日本の航空が再開され、戦後初の国産旅客機を開発するため1957(昭和32)年に輸送機設計研究会が設立された。秀政はその技術委員長になった。機名は輸送のY、設計のSをとってYS11と名づけられた。

YS11は、日本の航空機工業が結束して生みだすことになった。開発の目標は、近距離の中型輸送機で、日本のローカル空港の標準だった1200メートルの滑走路から離着陸できること、双発のターボプロップ・エンジンにすること、運行費をできるだけ低くすること、だった。航空旅客の伸びを予想して、乗客数は60人とした。

1959(昭和34)年にYS11の開発は日本航空機製造株式会社に引き継がれ、1962(昭和37)年に第1号機が初飛行に成功した。YS11は一時は日本のローカル線はYS11一色になるほどだった。海外へも輸出し、総生産数は182機にのぼった。

秀政は日本大学の航空学科教授から理工学部教授、さらに副総長の要職につくが、つねに若い学生と飛行について論じ、学生とともに飛行機をつくることを忘れなかった。飛行機への一貫した情熱と、幅広い知識、教養をあわせ持った秀政のような人材は他に見あたらない。

木村秀政は飛行機に一生をささげるのだが、何と言っても少年時代の強烈な経験が大きく影響している。偶然ともいえるが、いろんなイベントに興味深く参加しているから体験できたのだ。
企業においても、会社から言われるままに過ごしている人もいるはずだが、いろんなチャンスを生かすように積極的に行動することによって、人との巡り会いがあったり、アイデアが浮かぶこともある。


木村秀政のことば
  「人はいくつになっても勉強しなければならない」


木村秀政に関するDVD
  BLUE ON BLUE THE WORLD OF ANA サヨナラ YS-11 オリンピア [DVD]
  永遠の翼 YS-11 WINGS FOREVER [DVD]
  プロジェクトX 挑戦者たち Vol.8翼はよみがえった 1 ― YS-11・日本初の国産旅客機 [DVD]
プロジェクトX 挑戦者たち Vol.8翼はよみがえった 1 ― YS-11・日本初の国産旅客機 [DVD]BLUE ON BLUE THE WORLD OF ANA サヨナラ YS-11 オリンピア [DVD]

  

  




木村秀政の本
  わが心のキティホーク―世界航空史跡探訪 (光人社NF文庫)
  日本の名機100選 (文春文庫―ビジュアル版)
  木村秀政―わがヒコーキ人生 (人間の記録 (31))
  翔べ! YS-11 世界を飛んだ日本の翼
  YS‐11―国産旅客機を創った男たち
  YS-11誕生秘話 (航空秘話復刻版シリーズ (6))
YS‐11―国産旅客機を創った男たち翔べ! YS-11 世界を飛んだ日本の翼木村秀政―わがヒコーキ人生 (人間の記録 (31))