巧みに泳ぎぬいた   

細川幽斎

きょうは織田、豊臣、徳川に仕えた武将で歌人 細川幽斎(ほそかわ ゆうさい、本名:藤孝 ふじたか)の誕生日だ。
1534(天文3)年生誕〜1610(慶長15)年逝去(76歳)。

足利家臣伊賀守 三淵晴員(みぶち はるかず)の次男(実父は室町幕府第12代将軍 足利義晴とか)。母は清原宣賢の娘。7歳の時、肥後熊本藩の伯父 細川元常(もとつね)の養子となり、足利将軍家に仕えた。

1565(永禄8)年31歳の時、将軍 足利義輝が三好党に攻められて自殺した後、奈良興福寺に幽閉されていた義輝の弟 覚慶(のちの義昭)を救出し、近江へ逃れた。その後、義昭を将軍に擁立したが、義昭と織田信長の関係が悪化し、1573(天正3)年に義昭が打倒信長の兵を挙げるとこれを見限り、以後織田氏の部将として明智光秀とともに丹波・丹後の攻略などに参加。これらの功により、1579(天正9)年 信長から丹後を与えられ宮津城を居城とした。

光秀とは親しく、縁戚関係にあったが、1582(天正10)年の「本能寺の変」に際しては明智光秀からの再三の要請を断り、剃髮(ていはつ:髪を剃って仏門に入る)して幽斎と号し、信長への追悼の意を表した。また家督を嫡男 細川忠興(ただおき)に譲った。
その後豊臣秀吉に迎えられ、武将として小田原征伐などに従う一方、千利休らとともに側近の文人として寵遇された。
秀吉死後は徳川家康に加担した。1600(慶長5)年66歳の時、丹後 田辺城での、天下分け目の「関ヶ原の戦い」では、城を石田三成の西軍に囲まれたが、古今伝授の唯一の継承者であった幽斎の死を惜しんだ後陽成天皇の勅により、難を逃れた。
家康のもとでも優遇され、但馬一国を拝領し、晩年は京都 亀山城に隠棲した。肥後熊本細川藩の祖である。政治的才能に長け、戦国激動の時代を息子忠興とともに巧みに泳ぎぬいた
  古今伝授:「古今集」の解釈を中心に、歌学などのいろいろな学説を、口伝・切紙・抄物によって、師から弟子へ秘説相承の形で伝授すること。

有職故実(ゆうそくこじつ)のほか、剣術・茶道その他の武芸百般に精通した大教養人であった。歌は三条西実枝に学び、古今伝授を受け、二条派正統を継承した。門人には智仁親王烏丸光広、中院通勝などがいる。また松永貞徳・木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。「詠歌大概抄」「古今和歌集聞書」「百人一首抄」などの歌書のほか、「九州道の記」「東国陣道の記」など多くの著書を残した。
  有職故実:朝廷や武家の礼式・典故・官職・法令などに関する古来の決まり。

細川幽斎は織田、豊臣、徳川それぞれに仕えた武将であり歌人であるが、いくら政治的才能に優れ世渡りがうまいと言っても、なかなかできるものではない。そこは直接寝返るのでなく、一旦は中立的な立場であったり、争いに無関係な仏門に入ったりして、うまく乗り切っている。しかし、すばらしい武術と優れた教養により、敵にするのはもったいないと言う面が大きいようだ。

企業においても、好き嫌いは少なからずあり、それに巻き込まれないようにしなくてはいけないが、人間性や知識、教養、技術などその人の内面的なものが優れていれば、どんな場合においても暖かく迎えられるはずだ。
人の顔色ばかり気にせずに、自分の内面を磨く努力をしたい。


細川幽斎の本
  細川幽斎聞書 (和泉書院影印叢刊 (74))
  和歌秘伝抄 (笠間影印叢刊)
  細川幽斎の経営学 価値観大転換時代を生き抜く知恵 (PHP文庫)
  細川幽斎 (講談社学術文庫)
  細川幽斎伝
  細川幽斎・忠興のすべて
  細川幽斎―栄華をつかんだ文武両道の才 (PHP文庫)
細川幽斎・忠興のすべて細川幽斎伝細川幽斎 (講談社学術文庫)細川幽斎の経営学 価値観大転換時代を生き抜く知恵 (PHP文庫)