何気ない日常の価値   

木山捷平

きょうは昭和の詩人、小説家 木山捷平(きやま しょうへい)の
誕生日だ。
1904(明治37)年生誕〜1968(昭和43)年逝去(64歳)。

岡山県小田郡新山村(現 笠岡市山口)の名家に父 静太、母 為の長男として生まれた。 父は、一時 岩渓裳川に師事し漢詩を好んだ文学青年であった。捷平は県立矢掛中学校在学中から文学に関心を抱き、詩・短歌・俳句などを創作、「文章倶楽部」などの雑誌に投稿した。

矢掛中学卒業後は、文学を志して早稲田大学文学部への入学を希望したが、父の反対にあい断念、1923(大正12)年姫路師範学校第ニ部に入学した。 卒業後、出石小学校の教員生活を続けながら詩を書いた。1925(大正14)年4月上京し、東洋大学専門学部文化学科に入学するが、途中で退学。 この頃 赤松月船主宰の詩誌「朝」の同人となり、赤松の紹介で「萬朝報」に詩を発表した。
1927(昭和2)年23歳の時、病気のため、郷里と姫路で療養生活を送ったが、1929(昭和4)年ふたたび上京、5月に第一詩集「野」を、1931(昭和6)年6月には第二詩集「メクラとチンバ」を天平書房からそれぞれ自費出版し、詩人として注目された。同年11月27歳で、宮崎ミサヲと結婚した。

1933(昭和8)年、大鹿卓・太宰治らと同人誌「海豹」を創刊、1934(昭和9)年には壇一雄らと「青い花」を創刊、以後、小説家としての道を歩み、1939(昭和14)年5月35歳のときに最初の小説集「抑制の日」を刊行するなど、小説を次々と発表し、小説家としても才能を開花させた。また井伏鱒二尾崎一雄・外村繁・浅見淵らとも親交を深めた。

1942(昭和17)年6月から8月にかけて満州(現在の中国東北部)方面を旅行、1944( 昭和19)年12月、満州の農地開発公社嘱託として長春(当時の新京)に赴き、翌年8月41歳のとき現地召集をうけて応召した。

敗戦により1年ほど長春で、難民の一人として苦しい生活を送り、1946(昭和21)年42歳の時 帰郷した。戦後しばらく不遇であったが、1955(昭和30)年以後、庶民生活に徹しながら材を身辺に取り、虚実を巧みに混ぜ合わせた作品集を発表、独自の私小説の世界が世の注目を引くに至った。1956(昭和31)年52歳の時の「耳学問」で、ユニークな庶民派作家として世間の耳目を集めるに至った。

主な作品には、淡々とした筆致で中国での戦争体験を描いた「大陸の細道」(1962昭和37年)があり、この作品により1963(昭和38)年3月59歳の時、芸術選奨文部大臣賞を受けた。このほか、円熟の度をますます加えた短編の佳作「苦いお茶」(1963昭和38年)、「茶の木」(1965昭和40年)など、ますます円熟味を加えた作品を発表した。

捷平は、庶民の生活を独特のユーモア感覚で見つめた。彼が求めたのは、日常を通して浮かび上がる生の手ごたえ、人間の本質だった。だれよりも、何気ない日常の価値を知る作家だった。

捷平は、日常の何気ないひとコマを文学的に表現しユーモアを交えながら語ることのできる作家だったようだ。これは、出来上がったものを読むのは簡単だが、よほどの感性がないと見出せず表現できないものだ。

企業においても、職場の見慣れた普通の場面から問題点を抽出したり、目立たない人の優れた力を見出したりできるためには、よほどの注意力、観察力、感性を必要とし、特に上に立つ人は日頃からそれを養う努力を怠ってはいけない。


木山捷平の本
  木山捷平 (ちくま日本文学全集)
  鳴るは風鈴 木山捷平ユーモア小説選 (講談社文芸文庫)
  おじいさんの綴方・河骨・立冬 (講談社文芸文庫)
  角帯兵児帯・わが半生記 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
  木山捷平の世界 (岡山文庫 (159))
  木山さん、捷平さん
  木山捷平研究
木山捷平研究木山さん、捷平さん角帯兵児帯・わが半生記 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)木山捷平 (ちくま日本文学全集)