市井の名医の名を   

荻野久作

きょうはオギノ式で有名な産婦人科医 荻野久作(おぎの きゅうさく)の誕生日だ。
1882(明治15)年生誕〜1975(昭和50)年逝去(92歳)。

愛知県八名郡下川村(現 豊橋市)で中村家の次男として生まれた。1901(明治34)年19歳の時、同県西尾町 荻野忍の養子になった。1909(明治42)年、東京帝国大学医科大学を卒業。しばらく同大産婦人科教室 木下正中教授の下で研修、1912(明治45)年30歳で新潟市の竹山病院産婦人科部長に就任するとともに、1922(大正11)年40歳のときから新潟医科大学病理学教室で川村麟也教授の指導の下に病理学を研究した。
1924(大正13)年東大に論文「人類黄体ノ研究」を提出し、医学博士となった。
現在「オギノ式」として知られる理論は、1924(大正13)年42歳の時に発表した排卵荻野学説で、「排卵は次の月経第1日から逆算して14日±2日にある」という月経のメカニズムの解明であった。この理論は本人としては、不妊に悩むカップルのために、この時期なら妊娠しやすいという意味で提唱したのだが、実際には今日に至るまで、この時期を避けて性行為をすれば妊娠しにくい、という形で、避妊法として用いられている。このことには荻野博士としてはかなり遺憾であったようだ。

オギノ式は「次の月経予定日から逆算」という計算法なので、これを適用するには生理周期が安定していなければならないため、特に避妊を考える若い世代の女性では、そこに問題があることが多く、現在では、「オギノ式は、避妊法としては不確実なものである」とされている。やはり、不妊対策のひとつとして使う理論なのだ。
1930(昭和5)年48歳の時、ドイツの婦人科中央雑誌に、論文「排卵日と受胎日」を発表、大反響を起こした。

荻野博士のもう一つの業績として、京大の岡林博士が開発した子宮頚部癌の手術術式を改良し、「荻野変法」という根治率の高い手術術式を開発普及させ、現在の子宮癌手術の基礎を築き上げたことだ。しかもこれは、市中の多忙な開業医の仕事の中での資料と観察によって出来上がっていったという驚異的な業績だった。

1936(昭和11)年54歳で、竹山病院の院長に就任、以後、理事長、産婦人科医師として勤務。1952(昭和27)年 日本産婦人科学会名誉会員、1955(昭和30)年 第2回世界不妊学会名誉会長に推されるなどの栄誉のなかにあって、晩年に至るまで診療に手術にたゆむことなく従事した。1967(昭和42)年、竹山病院理事長を辞任、顧問となった。
人格はまことに円満で、自宅前の通りは、市民の発意により1975(昭和50)年に「荻野通り」と命名され、世界的な学者である市井(しせい:町)の名医の名を永遠に伝えることとなった。

人類が存続し繁栄していくための妊娠・出産という場面において、そのメカニズムを根気強く研究し、「オギノ式」を編み出したことは、使われ方はいささか違う面もあるが、世界を変える画期的な考え方であった。わかってしまえば単純なことかもしれないが、人の不思議を単純にわかりやすく説明した功績でもある。

企業においても、経営理念とかビジョンなど企業の方針を掲げる場合は、全社員が理解しやすく、何をすればいいのか、わかりやすくまとめ説明することが必要だ。


荻野久作のことば
  「『凝視無形、聴無声』 形無き物を見つめ、声無き声を聞け」


荻野久作の本
  法王庁の避妊法
  法王庁の避妊法
法王庁の避妊法