楽しむかのように   

魯山人

きょうは陶芸家、書家、料理研究家 北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん、本名:房次郎)の誕生日だ。
1883(明治16)年生誕〜1959(昭和34)年逝去(76歳)。

京都市北区の京都上賀茂神社の社家 北大路家の次男として生まれた。6歳の時に木版師 福田武造の養子となった。1908(明治41)年25歳のとき 朝鮮・中国に渡り、篆刻(てんこく:木や石に篆書で印をほること)を習ったり、古銘碑や古美術などを見て歩いた。帰国後、東京で書と篆刻の商いを始めた。

1913(大正2)年30歳のとき 長浜の紙問屋 河路豊吉がその才能に惚れ込み、食客として招いた。この頃、号を福田大観と改め、書や篆刻、刻字看板などを精力的に制作した。長浜市室町の柴田家で日本画竹内栖鳳(せいほう)と出会い、款印を彫った。これが縁で、京都に居た富田渓仙(けいせん)や土田麦僊(ばくせん)などの画家たちと交わった。
1915(大正4)年32歳の時に、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路家に復籍した。1918(大正7)年、鎌倉に移るまで、長浜や木之本、金沢、京都などの財産家を食客として転々とした。
1918(大正8)年36歳の時、幼友達の中村竹四郎と東京に骨董店「大雅堂芸術店(後の大雅美術店)」を開店。1919年、骨董店の二階に会員制の食堂「美食倶楽部」を併設。店の陶磁器に手づくりの料理を盛りつけた演出が、好評を得た。
翌年から正式に北大路魯山人と名のった。

1925(大正14)年42歳のとき 後藤新平徳川家達などの援助で、赤坂に会員制の美食の殿堂「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を開設。中村竹四郎を社長とし、魯山人は料理長としてだけでなく総合的な演出家としてあらゆる食と美の探求を行い、料理をとりまく総合的な芸術の世界を創り上げた。
1926(昭和元)年43歳のとき陶芸の窯場や住居、迎賓の場に当てるため、北鎌倉に私邸を建設した。迎賓用の棟を「慶雲閣」と命名した。

1930(昭和5)年 各地で「魯山人陶器展」を開催し、月刊新聞「星岡」を発行するなど、名声が一段と高まった。1935(昭和10)年52歳の時 「大阪星岡茶寮」を開設。長浜の河路豊吉の恩に報いるため、その息子 河路孝造を寮頭に抜擢した。
ところが、社長の中村竹四郎との関係悪化から突然解雇され、北鎌倉の窯場に籠もり、作陶に専念した。

1945(昭和20)年62歳のとき 東京の星岡茶寮を空襲で焼失。戦後、北鎌倉の窯場を「魯山人雅陶研究所」に改称し、作陶を続けた。1946(昭和21)年に作品販売専門店「火土火土美房」を開設した。
1951(昭和26)年68歳の時 パリの「現代日本陶芸展」で「柿の葉文組皿」が好評を博した。1954(昭和29)年71歳の時 ロックフェラー財団の招聘により、アメリカやヨーロッパ各地で展覧会や講演会を開催。ピカソシャガールと知り合った。

魯山人は、その類い稀なる感性と独特の創造性により、幅広い分野において、その非凡な才能を発揮させた人物であった。
1955(昭和30)年72歳の時 文化財保護委員会から「人間国宝」に認定する旨の承諾を求められるが、あっさりと辞退した。

明治・大正・昭和の激動期において、魯山人は実生活に結びついた文化を極め、それを楽しむかのように発展させた感性豊かな人物だ。ちょっとガンコでカリスマ的なところが、評判になった要因でもあったのだろう。

企業においては、利益とか合理性が優先し文化は鳴りを潜める感じだ。企業文化ということばがあるが、これは社風とか企業体質であり一般に言う文化とは異なる。しかし、企業文化こそが企業にとっては大切な要因であり、これのしっかりした企業は業績が上がり将来が期待できる。


魯山人のことば
  「器は料理の着物」
  「この世の中を少しずつでも美しくして行きたい。
     私の仕事は、そのささやかな表れである」
  「家庭料理は料理というものにおける真実の人生であり、
     料理屋の料理は見かけだけの芝居ということである」
  「三度炊く 飯さえ硬し軟らかし 思うままにはならぬ世の中」


魯山人の本
  魯山人陶説 (中公文庫)
  魯山人の料理王国
  魯山人書論 (中公文庫)
  魯山人「道楽」の極意
  北大路魯山人 (上巻)(下)
  真説 北大路魯山人―歪められた巨像
  北大路魯山人―人と芸術 (ふたばらいふ新書)
魯山人「道楽」の極意魯山人書論 (中公文庫)魯山人の料理王国魯山人陶説 (中公文庫)