フェアとはいえない   

藤田東湖

きょうは幕末の儒学者、水戸学の実践行動家 藤田東湖(ふじた とうこ)の誕生日だ。1806(文化3)年生誕〜1855(安政2)年逝去(49歳)。名:彪(たけき)、字:斌卿(ひんけい)、通称:虎之介、のち誠之進。号:東湖。

水戸藩(現 茨城県水戸市)彰考館総裁 藤田幽谷(ふじたゆうこく)の次男として生まれた。幽谷は古着屋に生まれ、その文才により彰考館で「大日本史」の編纂に携わり、ついには士分に取り立てられ大抜擢された。
幼少の頃から父 藤田幽谷の教えを受けた。1824(文政7)年、常陸水戸藩)大津浜に英国人12人が上陸した。徹底的な攘夷派の父 幽谷は、彼ら英国人を断固斬りに行くべしと息子の東湖に云った。東湖は死を決して大津浜に行ったものの、すでに彼らは釈放され船は去っていた。
1827(文政10)年、父の死により21歳で家督。1829(文政12)年彰考館総裁代理に就任した。この年、水戸藩主継嗣問題で、門閥保守派と下級武士を主体とする藩政改革派とが対立するや改革派の中心として、藩主 徳川斉脩(なりのぶ)の異母弟 斉昭(なりあき)擁立運動に奔走した。
徳川斉昭が9代藩主に就任し、側近として藩政の中枢に参画、戸田忠敝(ただあきら)らとともに水戸藩の「天保の改革」を推進し、「後期水戸学」の中心的人物となった。経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)に留意し、武備充実、庶政刷新を主張した。

しかし、その過程で、門閥派との確執が深まり、1844(弘化元)年、斉昭が処罰されると東湖も蟄居させられた。この間に「回天詩史」、「常陸帯」などを執筆し、水戸学の代表的著作である「弘道館記述義」を著した。
1849(嘉永2)年、斉昭の謹慎解除にともない、東湖も1850(嘉永3)年に赦免されて水戸へ、1852(嘉永5)年には処分が完全に解除され、斉昭の幕政参与とともに幕府海防掛に就任。1854(安政元)年には側用人に復帰、江戸詰となって活動する一方、全国の有志と交わって尊皇攘夷思想を広め、志士たちの間で信望を集め、東に水戸藩ありと印象づけた。

1855(安政2)年10月2日、関東地方を襲ったいわゆる「安政の大地震」で小石川の水戸藩邸内で、東湖は母をかばい自らが梁の下敷きになり、体全身で大きな梁を受け止め、母を脱出させてから、ついに力尽きたといわれている。東湖の死は各地の尊攘派に大きな衝撃を与え、東湖の尊攘論は、その後 西郷隆盛、橋本佐内、横井小楠吉田松陰などそうそうたる志士たちに大きな影響を与えた。
東湖は戸田忠敝、武田耕雲斎とともに「水戸の三田」と称され、その思想は朱子学的名分論によって貫かれた尊王攘夷論であった。

藤田東湖は藩主継嗣のとき徳川斉昭を支持し、以後かわいがられているが、斉昭の失脚と共に失職し、謹慎解除と共に同様に解除され、要職に就いている。いわゆる派閥による人事である。

企業の場合も、派閥人事は多々見受けられるようだ。派閥人事は、フェアとはいえないが、好景気の場合や現状維持政策の場合はうまくいくようだ。しかし、改革が要求される時期においては、派閥を越えいろんな人が混在する方が成功する確率が高いはずだ。


藤田東湖のことば
  「心掛けの正しくないものは、絶対に重要な役職についてはいけない 」
  「書を読むは酒を飲むが如し、至味意を合(さと)るに在り、
    酒は以て気力を養い、書は以て神智を益す」


藤田東湖の本
  弘道館記述義 (岩波文庫)
  江戸漢詩選〈4〉志士―藤田東湖・佐久間象山・吉田松陰・橋本左内・西郷隆盛
  日本の名著 29 藤田東湖
  新定 東湖全集・東湖先生之半面
  藤田東湖 (人物叢書)
  藤田東湖の生涯 (水戸の人物シリーズ)
  尊王攘夷の旗―徳川斉昭と藤田東湖
  国家という難題―東湖と鴎外の大塩事件
尊王攘夷の旗―徳川斉昭と藤田東湖藤田東湖の生涯 (水戸の人物シリーズ)藤田東湖 (人物叢書)新定 東湖全集・東湖先生之半面