数奇な半生をいきいきと  

長谷川伸

きょうは大衆小説家、戯曲作家 長谷川伸(本名:伸二郎)の
誕生日だ。
1884(明治17)年生誕〜1963(昭和38)年逝去(79歳)。

横浜市日出町で生まれ育ったハマッ子。母親と3歳の時に生き別れた。家の貧窮で、9歳で小学校を中退、働きはじめた。10歳から横浜第二ドックに住み込むなど土木や建築の現場で働いた。満足に学校は行けなかったが、本が好きで、新聞のルビで字を覚えた。14歳の頃、品川で遊郭の仕出し屋の出前持ちをしていた時、「その年で、こんな所にいたら末はどうなるの」と親身に意見をしてくれ、菓子と銭をもらった「たか」という遊女を偲んで、後に名作「一本刀土俵入り」を書いた。
1904(明治37)年20歳のとき、横浜の英字新聞ジャパン・ガゼット社への投稿がきっかけで新聞の世界に入った。1911(明44)年27歳のとき、都新聞(現 東京新聞)の大物記者に手紙を出し入社が叶った。そこで演芸欄を担当する傍ら、読み物や小説を書き、中里介山平山蘆江らと知り合った。1917(大正6)年頃から、「講談倶楽部」や「都新聞」に山野芋作名義で小説を発表。1920(大正9)年、「都新聞」に長谷川伸名義で「不鳴千鳥」を発表した。

筆名で書いた時代小説が菊池寛の目にとまり、「夜もすがら検校」で、1924(大正13)年40歳の時、本格デビュー。翌年、記者生活に終止符を打った。
同年、大衆文芸の振興を目的とした「二十一日会」同人となった。同人には中心となった白井喬司のほか、江戸川乱歩小酒井不木、土師清二、国枝史郎、正木不如丘がいた。また、1927(昭和2)年には土師清二、小酒井不木国枝史郎江戸川乱歩とともに「耽綺社」を設立し、大衆文学の合作を試みようとした。

「沓掛時次郎」が劇作家としての出世作となり、「関の弥太ッペ」「瞼の母」「一本刀土俵入」「雪の渡り鳥」等を発表。股旅(またたび)作家、人情作家として大衆の支持を得た。これらの股旅物の作品は舞台や映画でも繰り返し取り上げられ、多くの人々が感涙にむせんだ。また芝居一座の人々に最も尊敬されている作家である。

今では知らない人が多いが、当時は「瞼の母」や「一本刀土俵入り」といった股旅物のセリフは多くの人がそらで言えるほど有名だった。「上の瞼と下の瞼をしっかり閉じりゃ会わねぇ昔のお袋の…」とか「意見を貰った姐さんに、せめて見て貰う駒形の、しがねえ姿の土俵入りでござんす」といったセリフは、一種の基礎教養だった。

長谷川伸は、若い作家たちと小説、戯曲、テレビドラマの勉強会(後の「新鷹(しんよう)会」など)を多数主宰し、村上元三山岡荘八山手樹一郎池波正太郎平岩弓枝ら多くの後進を育て、「文学の師」「人生の慈父」と慕われた。

72歳の時「日本捕虜志」で1956(昭和31)年の菊池寛賞に選ばれ、戯曲集と後進の育成に対して1962(昭和37)年に朝日文化賞を受けた。
相当な苦労をした人で、自伝の白眉(はくび)とされる「ある市井(しせい)の徒」「新コ半代記」で、数奇な半生をいきいきと描いている。
長谷川伸は、生涯に167編の戯曲を遺した。

長谷川伸は、苦労人であり、それが大衆に受ける作品を数多く残せた要因でもあったのだろうが、作品だけでなく、長谷川自身も人間味にあふれた人物だったようで、多くの人から慕われている。

企業においても、いい意味で、これはあの人がやった仕事だ、と言われるような実績を残したいものだ。そのためには、権力を振りかざすばかりでなく、人間性を慕って一緒に仕事をしてくれる人がいなくてはいけないし、業績にも人間性が感じられるようなものがなくてはならない。


長谷川伸のビデオ、DVD
  鯉名の銀平・雪の渡り鳥 [VHS]
  中山七里 [DVD]
  おしどり喧嘩笠 [DVD]
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長谷川伸の本
  荒木又右衛門〈上〉 (人物文庫)(下)
  定本・忠臣蔵四十七人集
  生きている小説 (中公文庫)
  石瓦混淆 (中公文庫)
  ある市井の徒―越しかたは悲しくもの記録 (中公文庫)
  長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)
長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)定本・忠臣蔵四十七人集荒木又右衛門〈下〉 (人物文庫)