お互いの立場を認め   

金森徳次郎

きょうは憲法学者、国務相「憲法大臣」 金森徳次郎(かなもり とくじろう)の誕生日だ。
1886(明治19)年生誕〜1959(昭和34)年逝去(73歳)。

愛知県名古屋市に生まれた。東京帝国大学法学部を卒業。大蔵省へ入省したあと、法制局に移った。1934(昭和9)年48歳の時、岡田啓介内閣のもとで法制局長官になったが、美濃部達吉氏による天皇機関説憲法観を当時の枢密院議長 一木喜徳朗とともに擁護したことが、国体明徴運動への冒涜(ぼうとく:神聖・尊厳なものをおかし汚すこと)として、右翼議員に攻撃され、1936(昭和11)年 辞任、退官した。
  国体明徴運動:国体(天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方)に
            関する公式見解を是とする運動

金森にかかわりの深い一人の女性がいる。画家として歴史に足跡を残した河崎蘭香(らんこう)だ。蘭香は、1882(明治15)年、西宇和郡郷村(現 愛媛県八幡浜市千丈郷)の医師の次女として生まれた。名を菊といい、小学校の校長 河崎奨(たすく)の養女となった。
蘭香は小学校を卒業後、上京し音楽学校に入学。1年後に卒業、今度は画家を志し、日本画家 菊池芳文(ほうぶん)、東京美術学校の教授 寺崎廣業(こうぎょう)の門下生となり、特に人物画の研鑽を重ねた。

そんな時、後に八幡浜市長を二期勤め名誉市民になった菊池清治が、東京帝大の同級生だった金森を誘い、蘭香の下宿を訪ねた。それがきっかけとなり蘭香と金森との交際が始まった。二人は恋に落ち、本郷帝大前で同居生活を始めた。この時蘭香23歳、金森は19歳の学生だった。
しかし、この二人の恋は、金森の両親の強い反対で結ばれる事はなく、蘭香が亡くなるまで14年間続く。 蘭香は明治40年代より女性雑誌などの口絵や表紙絵を担当し、精力的に活動して女性の人気をさらった。当時、画壇は美人画が全盛に向かいつつある時期で、蘭香ら女流画家がやがて美人画の黄金時代を築いた。
この頃から蘭香は東京で30名ほどの門弟の指導に当たり、画家として揺るぎない地位を確立した。この時の門下生であった晴蘭が、蘭香の死後、金森と結婚した。 1917(大正6)年、蘭香は健康がすぐれず、翌年、インフルエンザにかかり、37歳の若さで亡くなった。遺骨は金森ではなく、郷里での婚約者が引き取り、郷里の墓地に納められた。 蘭香の死から35年後、1953(昭和28)年67歳のとき、金森は蘭香の墓を訪ね、次のように回顧した。「往時を追想し、万感こもごも迫るものがあった。後年、憲法改正の時 家族制度是正の論議に私は深い感激を持って説明した」(「私の履歴書」より)。
蘭香との結ばれなかった恋が、金森を民主憲法、とりわけ個人の尊厳が認められる家族制度の制定に導いたのかもしれない。

戦時中は、晴耕雨読の日々を送ったようだ。
戦後、第一次吉田茂内閣の時に、請われて憲法担当の国務大臣となり、以降、1946(昭和21)年11月3日、新憲法が公布されるまで政府側の担当大臣として国会での質疑の衝に当たった。

国会審議にあたって、金森が、天皇を「国民憧れの象徴」と説明したことが、「象徴天皇」を中心とする新たな皇室のありかたを規定することになったことは有名な話である。新憲法誕生の産みの親として「憲法大臣」といわれている。

1948(昭和23)年62歳の時、国立国会図書館の創設により初代館長となった。
著書に、1959(昭和34)年「憲法遺言」、1960(昭和35)年「春風接人」没後出版、などがある。

金森と蘭香は、インテリと芸術家であり、ドラマのような世界を想像してしまうが、違った感覚の持ち主としてお互いの立場を認めながら、惹かれあったのだろう。
人は誰でも精神的に落ち込む時があるものだが、そのような時に、話を親身になって聞いてくれ、共感してくれる人がいるというのは心強いものだ。


金森徳次郎の本
  憲法を愛していますか―金森徳次郎憲法論集 (人間選書)憲法を愛していますか―金森徳次郎憲法論集 (人間選書)