ベースになるもの   

白鳥省吾

きょうは大正・昭和の詩人 白鳥省吾(しろとり せいご)の誕生日だ。1890(明治23)年生誕〜1973(昭和43)年逝去(83歳)。

宮城県栗原郡築館町に生まれる。築館中学在学中より詩を作り始める。このころ文芸誌に投稿した詩が入選するなど、後年詩人として大成する片鱗を示している。中学卒業後、1909(明治42)年、早稲田大学英文科へ入学し、多くの詩人や作家の知己を得た。1912(大正元)年22歳、大学3年の時に詩壇にデビューした。1914(大正3)年24歳の時 処女詩集「世界の一人」を自費出版し、口語自由詩の斬新さで注目をあびた。

1919(大正8)年29歳の時「詩話会」委員に当選した。そして「日本詩集」「日本詩人」の発行に参加し、詩集「大地の愛」を出版した。民衆派詩人として、ワルト・ホイットマンの訳詩集があり、崇拝者としても知られている。
1926(大正15)年36歳の時「大地舎」を興し、自誌「地上楽園」を発行、後輩の育成につとめた。また自然主義文学の影響を受け口語自由詩を作り、福田正夫らの「民衆」に参加、民衆詩派の詩人として活躍した。

太平洋戦争の激化に伴い、1944(昭和19)年には妻 喜代の縁で東京小石川から東浪見村の遍照寺に家族全員で疎開し、以降1955(昭和30)年に千葉市小仲台町に転居するまでの10年余を過ごした。はるかに太平洋を望む高台の庫裡に住し、詩作をしつつ境内の畑の耕作もしたようだ。また町に出ては句会に出席し文学青年と語り合うなど、地域社会の文化活動にも貢献している。 

1961(昭和36)年 日本農民文学会長。1962(昭和37)年 日本歌謡芸術協会会長。1965(昭和40)年 第二代日本詩人連盟会会長。1968(昭和43)年 和洋女子大学教授などを歴任した。

白鳥は民衆派の代表的詩人として、農村生活をテーマにした平談健康な詩風で知られた。青年時代から文章家として有名で、講演者としても人をひきつける魅力に溢れた話術の持ち主であった。また書もよくし、書家松井如流が「帝王の書」と評したほどであった。

著作は、詩集・評論集・随筆集・民謡集・童謡童話集・翻訳など百冊近く、幅広い文学活動を展開し、その情熱は死に至まで少しも衰えなかった。また県内外の小・中・高200校近くの校歌を作詞している。
島田の作品には、健康的で生活と結びついた近代の社会思想を基盤とする民衆詩人の姿がうかがえ、自由・平等・友愛を揚げた民衆派のリーダーとして果たした功績は大きい。

白鳥はたいへんな文章家であり、それが凝縮した形で詩となっているのだろう。そのベースになるものは、やはり幼少の頃から文字に接する機会が多く、考えながら読書をしたり文章を書いていたはずだ。

会社の業務においても、それが改善活動であっても、企画書であっても、商品であっても、シンプルなものが結果的にはあらゆる面で優れているようだが、それには日頃から考えながらより多くの仕事をこなしていく必要があるようだ。


白鳥省吾のことば
  「実感を伴わない漠然たる詩的空想を排する。
   現実こそ永遠への窓である」
  「文学だけで社会性のないもの、芸術だけで人生のないもの、
   いわゆる芸術至上主義の詩は私は好みません」


白鳥省吾の本
  ホイットマン詩集 (世界の詩 27)