観測環境の悪化      

本田実

きょうは天文学者コメットハンター 本田実の誕生日だ。1913(大正2)年生誕〜1990(平成2)年逝去(77歳)。

鳥取県八頭郡八頭村(現 八東町)の農家の長男として生まれる。14歳頃から星に興味をもち、少年雑誌の広告に載っていた28mmシングルレンズを購入し、天体望遠鏡を自作、土星の環や木星の衛星を初めて見て感動した。
1932(昭和7)年19歳のとき、先の自作望遠鏡で金星の近くに彗星状のものを見つけ、京都市京都大学付属花山天文台へ報告したが、これは誤りであった。しかし、これがきっかけで花山天文台長山本一清博士の指導を受けることになった。

この頃、「彗星の話」(神田茂著)を読んで、日本人に彗星の発見が非常に少ないことを知り、自身で彗星捜索をすることを決意した。
1936(昭和11)年6月23歳のとき、山本博士のはからいで、皆既日食黄道光の観測のため京都大学の観測班と北海道へ同行した。また9月には京都大学の嘱託で台湾の阿里山黄道光観測を1カ月間行い、12月には山本博士が開設した黄道光観測所(広島県沼隈郡瀬戸村:現 福山市瀬戸町)の観測員となった。

1940(昭和15)年10月4日、彼は初めての新彗星「岡林・本田彗星」を発見した。翌年1月には「フレンド・リース・本田彗星」を発見、4月には倉敷天文台台員として着任、また7月には 慧(さとる)さんと結婚した。8月応召(中国東北部シンガポール作戦などに従軍)。本田実、28歳だった。

1942(昭和17)年5月 従軍中に英国軍が捨てていったレンズを拾い、手作りで望遠鏡を組み立て、戦地でグリグ・スキェレルプ周期彗星を独立発見した。1946(昭和21)年33歳で復員した。戦後も次々と彗星を発見した。1952(昭和27)年39歳の時 倉敷天文台の主事となった。また1967(昭和42)年54歳の時 倉敷市の幼稚園「若竹の園」の園長に就任した。
そして1968(昭和43)年8月31日 「本田彗星」を発見した。この彗星は彼にとって、12個目の新彗星発見で現役で最多となった。  

その後は新星発見に転じた。1970(昭和45)年2月14日 初めての新星「へび座新星」を単独で発見した。以後次々と新星を発見した。
1981(昭和56)年68歳の時 岡山県賀陽町内黒岩山山頂(約380m)に彗星、新星捜索の専用観測小屋を建設した。1987(昭和62)年1月26日73歳の時、11個目の 「ヘルクレス座新星」を発見した。1988(昭和63)年 賀陽町の観測小屋を、星にものを尋ねるという意味で、「星尋山荘」と名付けた。山荘では4個の新星を発見した。

1990(平成2)年8月24日 星尋山荘にて1453回目の観測を行った。彼にとってこれが最後の観測となった。
本田実氏は亡くなるまで彗星12個、新星11個を発見し、その観測地は、広島県福山市から倉敷市の倉敷天文台になった。その後、倉敷市の人口増加や産業の発展に伴う観測環境の悪化により、岡山県北部の各地を点々とした。

大気圏の汚れや夜間照明などにより、だんだんと天体観測がしにくくなってきているようだが、一般の住居からでも星を見ながら子どもと大人の会話ができるような環境は、いつまでも残しておかなければならない。
また企業においても、空気を汚したり必要以上の夜間照明は、環境保護の面だけでなくコスト的にもしてはならないことだ。

本田実を支えた夫人 本田 慧さん
 彗星に心がついて…



  
   本田・ムルコス・パジュサコバ彗星(1948、昭和23年12月6日 発見)