感情のままに行動する   

島崎藤村

きょうは詩人・小説家 島崎藤村(しまざき とうそん、本名:春樹)の誕生日だ。
1872(明治5)年生誕〜1943(昭和18)年逝去(71歳)。

筑摩県第八大区五小区馬籠村(現 岐阜県中津川市馬籠)に、父正樹、母ぬいの四男(末子)として生まれる。生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる旧家だったが、明治維新の変動で没落した。彼は9歳のときに父と長兄のはからいで、勉学のためにすぐ上の兄とともに東京に出て、同郷の吉村家に寄宿しながら日本橋の泰明小学校に通った。

三田英学校(現 錦城中学)から共立学校(現 開成高校)を経て明治学院普通部(現 明治学院大学)に入学後、共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受けた。明治学院を卒業後、「女学雑誌」に小説を書き始めた。

明治女学校、東北学院、小諸義塾の英語、国語教師として教鞭をとるかたわら、北村透谷らとともに雑誌「文学界」を創刊し、「文学によって人間の魂を築きあげよう」という透谷の考えに大きく影響を受け、終生先達と仰いだ。
しかし、彼は教え子と恋愛問題を起こし辞職を余儀なくされた。教え子との実らぬ恋に苦悩し、1年近く漂白の旅を続けた。その後、復職するが、その直後 透谷が自殺した。1896(明治29)年24歳のときに東北学院の教師として仙台に移った。

透谷の志をついで浪漫派詩人としてさかんに詩を作り、1897(明治30)年25歳で、詩集「若菜集」続いて「落梅集」を刊行し日本の近代詩の新境地を開いた。
長野県の小諸に住んで随想集「千曲川のスケッチ」を制作、1905(明治38)年33歳の時、小説「破戒」を書き上げた彼は、小説で身を立てる覚悟で上京した。しかし、生活は苦しく、翌年、妻の実家から借りたお金で自費出版し、日本自然主義文学の先陣を切った。それは高い評価を受けたが、困窮のために食事もままならず、三人の娘をあいついで亡くしてしまった。

その悲しみの中、小説家としての地歩を固めていた矢先、今度は妻が急死してしまった。育児と執筆に励んでいたが、姪と過失を犯してしまった。彼は、1908(明治41)年、「春」「家」「新生」をはじめ多くの自伝的作品を発表して自然主義を代表する作家となった。彼は先の背徳事件から逃げるように、1913(大正2)年41歳の時、フランスへ留学した。そこで 第一次世界大戦に遭遇、1916年に帰国し、早大と慶大でフランス文学を教えた。

教鞭をとるかたわら、童話集「幼きものに」、紀行文集「海へ」「エトランゼエ」「佛蘭西だより」などを次々と刊行した。
そして、1928(昭和3)年56歳のとき加藤静子と再婚、翌年長編「夜明け前」を発表し歴史小説として高い評価を受けた。彼は1935(昭和10)年 63歳 のとき、日本ペンクラブを創立し初代会長についた。1943(昭和18)年71歳の時、「東方の門」執筆中に脳溢血で倒れ永眠した。

彼の父の正樹は、島崎家の17代当主であり、小説「夜明け前」の主人公 青山半蔵のモデルと言われている。
この正樹は異母妹と近親相姦の関係となっている。また、藤村と同様正樹もまた、妻が急死したあと、子供の世話のために姪二人を住みこませたとき、妹の方と関係してしまい妊娠させている。藤村は、非常に苦悩し、日本を逃げ出す口実にしたのが1913年のフランス留学だったようだ。その後、日本に戻った彼は、東京朝日新聞に姪との近親相姦を題材にした小説「新生」を連載で発表し、大反響を呼んだ。

唱歌として有名な「椰子の実」は、詩集「落梅集」に記載された詩に大中寅二(作曲家、オルガニスト)がメロディをつけたもので、柳田國男の「海上の道」にこの詩ができた由来が書かれているのも有名である。歌となった藤村の作品としては、ほかに「朝」や「千曲川旅情の歌」も知られている。また、明治学院大学の第一期卒業生であり、同大学の校歌を作詞している。

藤村は、思うまま、感じるままに生き、それを作品にしたようだ。感情のままに行動する人は、映画や小説などにおいては面白いが、実生活においてはいろんな問題が発生する。
芸術家はそのあたりが大目に見られているようだが、一般の社会生活においては、特に企業においてはモラルを欠く人となり、周囲にいて欲しくない人だ。


島崎藤村のビデオ
  日本詩人アルバム 詩季彩人?島崎藤村/北村透谷 [VHS]


島崎藤村の本
  破戒 (新潮文庫)
  千曲川のスケッチ (新潮文庫)
  夜明け前 (第1部 上) (新潮文庫)・下、(第2部上・下)
  島崎藤村 (ちくま日本文学全集)
  写真と書簡による島崎藤村伝 (島崎藤村コレクション)
  冬の家―島崎藤村夫人・冬子
写真と書簡による島崎藤村伝 (島崎藤村コレクション)島崎藤村 (ちくま日本文学全集)千曲川のスケッチ (新潮文庫)破戒 (新潮文庫)