みな自分の子どもだ   

大隈重信

きょうは明治・大正時代の政治家 大隈重信の誕生日だ。
1838(天保3)年生誕〜1922(大正11)年逝去(84歳)。

肥前国佐賀会所小路に佐賀藩知行400石取りの砲術長だった父大隈与一左衛門信保(よいちざえもんのぶやす)・母三井子の長男として生まれた。おおらかな母の影響で、いつも家には友達が集まりにぎやかだったようだ。1844(弘化元)年6歳にして藩校・弘道館に入るが、「葉隠 はがくれ」中心の偏狭な学風に嫌気がさし、1854(安政元)年16歳で、国学者枝吉神陽(えだよし しんよう)主宰の勤皇結社「義祭同盟 ぎさいどうめい」に加入した。しかし、翌年には藩校の学制改革を唱えて退学を命じられた。

これを機会に蘭学に転じ、1856(安政3)年 藩の蘭学寮に入り、1861(文久元)年23歳で弘道館の教授となり、藩主鍋島直政にオランダ憲法を進講した。更に1864年26歳の時、藩の役人として長崎に赴き、仕事に励みながらアメリカ人宣教師・フルベッキのもとで英語を学び、オランダ憲法アメリカ独立宣言の研究に励んだ。翌年長崎に英語学校「致遠館」を設立しその経営にあたった。
大隈は幕末の尊王攘夷運動に加わり、尊攘派志士として活躍した。1867(慶応3)年29歳の時、将軍 徳川慶喜大政奉還を勧めるため、副島種臣とともに脱藩して京都に行くが、藩吏に捕まり佐賀に送り返され、1ヶ月の謹慎を命じられた。

明治新政府では重く用いられ、大蔵大輔(今の大蔵次官)と民部大輔になり、大久保利通伊藤博文らに協力して、鉄道や電信を作るなど、財政の責任者として政府の基礎をつくることにつとめた。
しかし自由民権運動が起こると、国会の即時開設を主張して伊藤博文らと対立し、1881(明治14)年に政府を追われた。このあと、立憲改進党を結党し同党総理となり憲法発布、国会開設など民権運動を進めた。板垣退助らの自由党がフランス流の急進主義だったのに対し、大隈が総理の立憲改進党は、イギリス流の比較的おだやかな政党であったようだ。

1888(明治21)年50歳で、伊藤博文内閣 続けて黒田清隆内閣の外務大臣となり、条約改正に努めた。翌年、外相官邸前で馬に乗っているところを国粋主義組織 玄洋社社員・来島恒喜に爆弾を投げられ右足を失った。1896(明治29)年58歳のとき、松方正義内閣で再度外務大臣に就任するが翌年12月に辞任した。
その後、1898(明治31)年60歳で、板垣退助憲政党を結成し第一次大隈内閣をつくり首相についた。この内閣は日本最初の政党内閣だったが四ヶ月で倒れた。
そして1914(大正3)年76歳で、第二次大隈内閣を組織した。そして、1914(大正3)年に第一次世界大戦参戦を決定した。

大隈は英国をモデルにした日本の近代化構想を抱き、政治家としてものを考え行動するとき絶えず念頭にあったのは、一貫して英国であった。英国が当時世界の指導者であったばかりでなく、英国が一貫して天皇政府確立に尽力してくれたという意識からでもあった。
大隈の思想は政治家として、現実的な面を有するとともに、理想主義的な側面をも持っている。大隈にとって西洋文明とは功利的知識が中心であり、東洋文明とは一種理想的で道徳的な仁愛が中心であると認識され、両者が弁証法的に調和されることが最高の理想としている。

彼は、政治家であると同時に、広く明治文明の推進者としても功績があり、1882(明治15)年44歳で、東京専門学校(今の早稲田大学)を創設。1907(明治40)年69歳の時、早稲田大学総長に就任した。青年好きな大隈はいつも「学生はみな自分の子どもだ」と言って終生教育事業に力を尽くした。その後も優れた教育により多数の偉大な人物を輩出しつづけている。

企業においては、活性化のために次々と企画を実行する必要があるが、それが維持・発展していくためには、経営者による十分なフォローが欠かせない。着実な活動を継続することで定着させ成果をあげることができる。


大隈重信の本
  東西文明之調和―大隈老侯遺著
  開国五十年史 上巻 (明治百年史叢書)
  大隈重信―進取の精神、学の独立 (上)(下)
  知られざる大隈重信 (集英社新書)
  大隈重信と政党政治―複数政党制の起源 明治十四年‐大正三年
  わが早稲田―大隈重信とその建学精神
わが早稲田―大隈重信とその建学精神大隈重信と政党政治―複数政党制の起源 明治十四年‐大正三年知られざる大隈重信 (集英社新書)