リアルに表現する   

井伏鱒二

きょうは昭和期の作家 井伏鱒二(いぶせ ますじ、本名:満壽二)の誕生日だ。1898(明治31)年生誕〜1993(平成5)年逝去(95歳)。

備後加茂村(現 広島県福山市)に、15世紀から続く豪農の次男として生まれる。5歳の時、父 郁太と死別した。幼少の頃は体が弱く、小学校時代は夏になると瀬戸内海の海で療養をしたようだ。福山中学卒業の後、日本画家を志して京都の橋本関雪の門に入ろうとしたが、兄の勧めで文学に志望をかえて東京に出て、1919(大正8)年21歳で早稲田大学文学部仏文科に入った。大学3年の時、担当教授と意見が衝突して加茂村へ帰郷、翌年 退学している。

聚芳閣という出版社に勤めたり辞めたりをくりかえし、早稲田鶴巻町界隈の下宿と郷里 備後加茂村を行き来し、同人誌活動をつづけるが、プロレタリア文学流行の中で孤立感を深めていった。1927(昭和2)年29歳の時、鱒二を最も理解してくれた祖父を失った。同年、実家の援助でまだ畑ばかりだった東京 荻窪に新居を建て、ここを終生の住処とした。

1928(昭和3)年30歳のとき、早稲田大学の同級で親友の青木南八が急死したのを動機に、「鯉」を「三田文学」に発表した。そして、同人雑誌「世紀」に参加し、肥大して岩屋に幽閉された山椒魚の狼狽と悲哀を描いた短編「山椒魚」を発表、ついで、同人雑誌「文芸都市」に「屋根の上のサワン」を発表するなど、次々と発表し、作家として認められるようになった。

プロレタリア文学の盛んな頃であったが、それに反発し新興芸術派に近づいた。1930(昭和5)年、第一短編小説集「夜ふけと梅の花」を刊行し作家的地位を確立した。その後も「さざなみ軍記」「仕事部屋」「集金旅行」などを次々に発表し、1938(昭和13)年40歳のとき、「ジョン万次郎漂流記」で第6回直木賞を受賞した。

1941(昭和16)年43歳のとき、陸軍に徴用され、報道班員としてマレー、シンガポールに向かい、翌年、徴用を解除された。1943年、甲府、後に郷里の備後加茂村に疎開し、1947年に東京の自宅にもどった。
1930年ごろから太宰治が師事するようになり、以後 面倒を見続け、東京に戻った年に太宰が心中によって亡くなった時も葬儀委員長をつとめた。

彼は、独特のユーモアと哀感とが底に流れる文体で現実を重視する文学を生み出し、その作風は多くの人に支持されている。その他、「ドリトル先生もの」など児童文学の翻訳、随筆、詩も制作している。
戦後は、原爆投下直後の悲惨な状況のみならず、その後の平穏な日常をも脅かす原爆の恐ろしさと怒りを骨太に書いた「黒い雨」は多くの人々に衝撃を与えた。

以後、膨大な作品群を書くが、どれも巧みな話術的手法に富んでおり、その本質は、本来の持ち味である感傷を抑えた独自のユーモアとペーソスで、事件の推移をリアルに表現するところにある。
鱒二は、考え方はきちんと主張し、そのために、時として人と衝突することもあったようだが、基本は人に対する思いやりであったような気がする。

企業における改善活動は、考え方によっては人減らしとか強制労働のように受取られることもあるが、基本は人に対するやさしさが無いと、結局は成果に結びつけることができない。

井伏鱒二のことば
  「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早くすみさえすればいい。
    いわゆる正義の戦争よりも、不正義の平和の方がいい 」


井伏鱒二の映画
  黒い雨 [VHS]


井伏鱒二の本
  黒い雨 (新潮文庫)
  山椒魚 (新潮文庫)
  厄除け詩集 (講談社文芸文庫)
  川釣り (岩波文庫)
  たらちね
  ジョン万次郎漂流記 (偕成社文庫)
ジョン万次郎漂流記 (偕成社文庫)たらちね川釣り (岩波文庫)厄除け詩集 (講談社文芸文庫)