さもしい料簡だ   

折口信夫

きょうは民俗学者歌人 折口信夫(おりくち しのぶ、筆名:釈迢空 しゃくちょうくう)の誕生日だ。
1887(明治20)年生誕〜1953(昭和28)年逝去(66歳)。

大阪府木津村(現 大阪市浪速区)に父秀太郎(医業)母こう の四男として生まれる。幼いころから古典文学に親しみ、小学校入学のころには百人一首を暗誦し、天王寺中学校時代には万葉集を読破したうえで自らの解釈を付けるまでになっていたようだ。

その才能は國學院大学に進んでからより磨かれた。1910(明治43)年卒業し、大阪で中学校教師をしたのち、國學院大學に勤め、国文学、民俗学、芸能楽言語学と研究分野を広げた。1913(大正2)年26歳の時、柳田国男の雑誌「郷土研究」に投書して柳田の知遇を得、以後 柳田を終生の師と仰いだ。折口は柳田の高弟として民俗学の基礎を築いた。しかし考え方としては一線を画し、柳田が科学者的であったとするなら、折口は文学者的であった。

1921(大正10)年34歳で、國學院大學教授となり、1928(昭和3)年、慶應義塾大学教授を兼任、1932(昭和7)年、文学博士となった。一方で詩歌の才能に優れ、釈迢空の筆名で独自の歌風を確立した。

ひたむきに学問に打ちこみ、生涯独身を通した折口には、たくさんの弟子が集まってきた。なかでも20歳年下の藤井春洋(ふじい はるみ)を可愛がり同居、1944(昭和19)年、藤井が太平洋戦争の末期南方戦線に送られる間際に、自らの養嗣子として入籍した。
残念ながら、藤井は硫黄島で玉砕し、二度と日本の地を踏むことはなかった。1949(昭和24)年、折口は藤井の生地の墓所に父子墓を建立し、藤井の霊を慰めるとともに、自らも没後はその墓に入ることを希望した。その4年後、天才国文学者 折口は、藤井のもとに旅立った。

折口ほど日本語を愛し、正しい日本語を伝えようとした人も少ない。彼がもっとも嫌ったものに、「事大主義」と「合理主義」がある。
「事大主義」とは「勢力の強いものに従う主義」だが、折口は有名人の言を無批判に尊んだり、大新聞の説などをすぐに信じることを極度に嫌った。また、合理的だからといって、物事を簡単にかたづけてしまうことにも強く反対したようだ。
当時、新聞などで帝国大学を帝大と略し一般化したとき、折口は「新聞記者が紙面を倹約するのはいいが、口でいうときまでそのように言うのは日本語を愛していないさもしい料簡だ」と、強く叱った。

企業の改善活動は、科学的手法を駆使して合理的に行わなくてはいけない。しかし改善活動においても、人が関係する部分においては、合理的過ぎるとかえって作業性が悪くなる場合があるので注意を要する。


折口信夫の本
  死者の書・身毒丸 (中公文庫)
  かぶき讃 (中公文庫)
  折口信夫 (ちくま日本文学全集)
  神々の闘争 折口信夫論
  執深くあれ―折口信夫のエロス
  物語の始原へ―折口信夫の方法
執深くあれ―折口信夫のエロス折口信夫 (ちくま日本文学全集)かぶき讃 (中公文庫)死者の書・身毒丸 (中公文庫)