最もプレッシャーのかかった 

pract2005-02-10

きょうは江戸時代中期の儒学者、政治家 新井白石(あらいはくせき、本名:君美 きんみ、号:白石)の誕生日だ。
1657年生誕〜1725年逝去(68歳)。

江戸柳原で、上総国久留里藩城主土屋利直の藩士新井正済(あらいまさなり)の長男として生まれる。苦しい生活の中で学問に精進したが主家に恵まれず、土屋家・堀田家を相次いで浪人した。儒学の師 木下順庵に学び、1693(元禄6)年36歳の時、推挙され甲府藩主 徳川綱豊(のち家宣)の侍講となった。

1709(宝永6)年52歳の時、家宣が6代将軍になると幕政に参画、一体分身と家宣に言わしめた信頼関係を得、寄合に昇進、1711(正徳1)年、家禄1千石で旗本に列した。家宣死後も7代将軍家継を補佐し、経済インフレを是正するための貨幣改鋳や、長崎貿易制限などの政治改革を展開した。学識者が行政にあたる異例のなかで、後に「正徳の治」と呼ばれた。

1716(享保1)年59歳の時、家継が没し、8代将軍に吉宗がつくと失脚した。その後は著述に専念、朱子学を基本として言語学歴史学にも長じ、自伝「折たく柴の記」をはじめ、「読史余論」や「西洋紀聞」など多数の著書を著わし、東西歴史学言語学に多彩な業績を残した。これらはすぐれた合理的な歴史思考を示しており、史学史上に高い地位を占めている。

白石は、十八世紀初頭の江戸期における類まれな儒学者、政治家である。学問領域の広さや合理的かつ先駆的業績において近世屈指の人文学者であり、同時に幕政転換期に諸政策実行の中心として活躍した政治家である。
思想的には、徹底した合理主義者の側面を持ち、時代の転換期を画す近代思想の曙光とされ、封建社会から近代への脱皮を促したオピニオンリーダーである。

どちらかと言えば文学者であった白石を藩主に推挙した儒学者 木下順庵も偉いけれども、それを受け入れ信頼し政治家として生かした徳川綱豊もたいしたものだ。しかし最もプレッシャーのかかったのは白石だったかもしれない。

企業においても、同じタイプとか同じレベルの人だけで、改善活動などのグループ編成をすると、革新的なアイデアが出にくくなるようだ。少しはリスクがあっても、異なった人を加えると活性化され,大きな成果が期待できる。


新井白石のことば
  「男児はただ事に耐えることを習ろうべき也」


新井白石の本
  折たく柴の記 (岩波文庫)
  新井白石 南島志 現代語訳 (琉球弧叢書2)
  読史余論 (岩波文庫)
  奇会新井白石とシドティ
  新井白石―国家再建の鬼
  新井白石の政治戦略―儒学と史論
  新井白石の研究
新井白石の政治戦略―儒学と史論新井白石―国家再建の鬼奇会新井白石とシドティ折たく柴の記 (岩波文庫)