日本を良くしようと   

江藤新平

きょうは佐賀藩士、明治時代初期の政治家 江藤新平(幼名:胤雄 かずお 号:南白)の誕生日だ。1834(天保5)年生誕〜1874(明治7)年逝去(40歳)。
肥前国佐賀鍋島藩の下級武士 江藤助右衛門の長男として生まれる。幼少時代から聡明、鋭敏であったようだ。藩校弘道館に学ぶが、佐賀藩では実に苛烈な教育が行われていたらしく、ある年齢になると試験があり、その試験に合格しないと家禄さえ没収されるほどであったようで、佐賀藩士は全員猛勉強をしていたという。
江藤は1850(嘉永3)年16歳で、国学者 枝吉神陽の義祭同盟に参加、尊攘派として1853年「鄂羅斯(オロス:ロシア)を諭す檄(げき)」を書き、1856(安政3)年には「図海策」を発表して開国論を主張した。
1862(文久2)年28歳のとき、藩主 鍋島直正が攘夷に立上らないので脱藩、上京した。そして桂小五郎の仲介で姉小路公知に面会し「姉小路公知殿との問答始末」をまとめた。尊攘運動をし始めたが、藩主に連れ戻され、本来なら死刑のところ優秀さを認められ、無期限の蟄居(ちっきょ:いわゆる軟禁)の罰を処された。
1867(慶応3)年、蟄居を解かれ郡目付となり、藩主鍋島直大に先行して上京した。1868年維新となり、戊辰戦争では東征軍の軍官として江戸市政を担当し、首都を江戸へ移し東京と改めた。江戸開城のときすばやく政治関係の文献や記録類を探し出して、その目のつけどころの敏捷さに幕臣山岡鉄太郎を驚かせている。
1869(明治2)年35歳のとき、佐賀藩制を改革するとともに、中弁と言う重い役に昇進した。1871(明治4)年に文部大輔、ついで左院副議長となり民法典編さんに尽力した。1872(明治5)年38歳で、司法卿(現 法務大臣)となり司法権独立、警察制度の統一をはかり、改定律例を制定し、フランス法を直訳した「民法草案」を編纂した。また、廃藩置県を行ったり、東京遷都を建白するなど維新の中核を担った。翌年には参議となり、「民法仮法則」を完成させた。
この後、征韓論をとなえたが紛糾後敗れて西郷隆盛らと共に政府を去り野に下った。1874(明治7)年、板垣退助等と「民選議員設立建白書」に署名し自由民運動を開始した。その後郷里の佐賀に帰り、征韓党の首領として不平士族をひきいて「佐賀の乱」を起こしたがすぐに敗れた。鹿児島・高知に逃れたが捕えられ、大久保利通の臨時裁判により除族の上、処刑・梟首(きょうしゅ:さらし首)された。
なお、1889(明治22)年、大赦され、名誉を回復した。
日本を良くしようという一心で、政府内で闘う江藤だが、結局多数派に敗れて追放された上、賊軍のリーダーとして不名誉な処刑をされてしまう。
企業においても、当初は会社のための議論であっても、いつの間にか個人的な感情論になり、結局誰かが責任をとらされ左遷や追放になる場合がある。
いつも冷静にというのは難しいが、感情的になった場合、冷却期間を置くと解決することがある。


江藤新平の本
  江藤新平―急進的改革者の悲劇 (中公新書)
  司法卿 江藤新平 (文春文庫)
  江藤新平―近代日本のかたちをデザインした人 (教科書が教えない歴史人物の生き方)
  江藤新平伝―奇跡の国家プランナーの栄光と悲劇
  江藤新平 (人物叢書)
  宗善記―江藤新平と深堀武士
  歳月 (講談社文庫)
歳月 (講談社文庫)江藤新平伝―奇跡の国家プランナーの栄光と悲劇江藤新平―近代日本のかたちをデザインした人 (教科書が教えない歴史人物の生き方)司法卿 江藤新平 (文春文庫)