知的欲求にかられた   

剛立の月面観測図

きょうは江戸時代中期の民間の天文暦学者 麻田剛立(あさだ ごうりゅう、幼名:妥彰 やすあき)の誕生日だ。
1734年生誕〜1799年逝去(65歳)。
豊後国杵築藩(現 大分県杵築市)の藩医 綾部(あやべ)安正の第四子として生まれた。幼い頃から独学で天文学と医学を学び、7歳の時 家の縁側にさしこむ陽の位置を1年間印をつけて観察し、冬至夏至の意味を自ら考え出した。また22歳の時、友人に翌年9月の日食を見事に予言した。
1767年33歳で杵築藩侯の侍医となり、藩医を務めながら自作の望遠鏡で天体観測を行った。1771年、天文暦学を志して脱藩し、大坂で麻田剛立と改名し、町医として資を得ながら天文観測の研究を続けた。1780年頃、天文塾「先事館(せんじかん)」を開設し天文暦学を教えた。望遠鏡を作り、測器を改良して日夜天文観測に打ちこみ、ケプラーの第三法則と同じ法則も独創した。
剛立の学風は理論を実測で確認するという近代的なもので、天文暦学では実際の天文現象や観測を基にした。優秀な人材も集まり、高橋至時(よしとき)、間重富(はざま ちょうがい)、山片蟠桃(やまがた ばんとう)等多くの弟子を育て、「麻田学派」と呼ばれる一派が形成された。
寛政年間(1790年頃)、幕府は改暦のために剛立を招こうと考えたが、老齢かつ脱藩の身ゆえ辞退し、高弟の間重富高橋至時を推した。
剛立は天体(マクロコスモス)観測と動物(ミクロコスモス)解剖に没頭した江戸中期を代表する科学者だった。
天文学分野においては「日本の天文学の近代化は麻田剛立から始まった」といっても過言ではない程で、幕末までの日本の天文学の主流となる流れを築く役割をはたしている。また、医学の分野では日本でいち早く解剖学に取り組み、当時で は最先端の解剖学者でもあった。
著作は弟子が伝えるものしかないが、「実験録推歩法」「持中法」などがある。
剛立は医者であり天文学者であったわけだが、やはりそこには共通した何かがあったのではないか。たぶん、天体のマクロと動物のミクロのどちらも未知の部分が多く、知的欲求にかられたのだろう。誰しもそのような興味を持つが、命をかけ脱藩してまでやってしまう行動力には敬服する。
企業においても、よく先が見えるとか見えないとか言われるが、わからないからやらないのでなく、わからないからやってみるというポジティブな考え方の方が、予測が当たる確率が高いはずだ。


麻田剛立の本
  近世日本科学史と麻田剛立
  天空に魅せられた生涯―小説麻田剛立伝

    
 天球儀(江戸時代)    屈折望遠鏡(江戸時代)