足の裏をなでると   

寺内正毅元帥

きょうは18代首相、陸軍大将 寺内正毅(てらうち まさたけ)の誕生日だ。1852年生誕〜1919年逝去(66歳)。
長門国(現 山口県長州藩士宇多正輔の三男として生まれ、母方の寺内家を継いだ。幼少にして御楯隊隊士として幕長戦争に従軍した。
第二次長州戦争の防衛戦、戊辰戦争箱館まで転戦した。明治維新後、陸軍兵学寮に入り日本陸軍軍人となった。1871(明治4)年19歳で陸軍士官に累進し、西南戦争に従軍、負傷により右手の自由を失った。このため、現場で軍を直接指揮することは出来なくなり、寺内の活躍の場は、戦場から軍の政策、戦略を練る軍政の場へと移っていった。
1882(明治15)年30歳のとき、公使館付武官としてフランスへ留学し、3年の留学後、陸軍士官学校長、初代教育総監参謀本部次長を歴任した。1902(明治35)年50歳で第一次桂太郎内閣、1906年第一次西園寺公望内閣、1908年第二次桂内閣の三内閣で10年近く陸相陸軍大臣)を務め、日露戦争の勝利に尽力した。
この過程で、寺内は、政治結社や集会を禁止し言論を抑圧するなど、人権や自由を厳しく制限する政策を推進している。このタカ派的な強硬な政治姿勢が評価され、のちに総理大臣に任命される下地となっている。
戦後、1910(明治43)年58歳の時、陸相のまま韓国統監を兼務、韓国併合で、初代朝鮮総督となった。
桂太郎歿後、山県有朋の後継者と目され、第一次世界大戦のさ中、大隈内閣の後を受け、1916(大正5)年64歳で第18代内閣総理大臣に就任した。閣僚は貴族からなり、政党を無視した挙国一致を目指した内閣だった。
1918(大正7)年、ロシア革命に際してシベリア出兵を行なったが、それに伴う増税言論弾圧などで世論から軍閥政治と非難され、物価が高騰し米騒動が起こった。何とか鎮圧したが連日暴動が相次ぐ非常事態となって、既に健康を害していたこともあり、内閣は崩壊、総辞職した。そして原敬内閣へと引き継がれた。
寺内内閣は当初から長続きしないだろうと言われ、世論は批判的であったようだ。寺内自身の頭が尖っていたのでビリケン人形(画像参照)に似ていて、非立憲と掛け合わせて「ビリケン」と呼ばれていたようだ。
ビリケン人形は、足の裏をなでると願いが叶うと言われているようだが、寺内は生涯を通して戦争ばかりしてきた人生で、強圧的な政策をとったので、反発する人も多かったようだ。
企業においても、変革期の経営は、リーダーの強い意志と判断で強引に引っ張る方がうまくいく場合が多いようだ。
しかし顧客や社員の声を無視すると言うことではない。



 ビリケン人形

><