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西 周

きょうは明治の哲学者、近代哲学の父 西 周(にし あまね)の誕生日だ。1829年生誕〜1897年逝去(68歳)。
島根県津和野の代々藩医を務める西時義の長男として生まれる。通称は経太郎、後に寿専・周助・周と改名する。川向いには、森鴎外の生家があり、時義は森家から養子に入った人で、森鴎外と周は親戚にあたる。
たいへんな勉強家で、4歳の時から祖父に儒学を教え込まれ、素晴らしい素質を示し、家業の外科医の勉強に専念する。12歳で藩校養老館に入学、19歳のとき藩主に才能を認められ一代に限り家業を継ぐことを免じる「一代還俗」を命じられた。
大阪、岡山へ遊学の後、1849年20歳で藩校養老館の教授となったが、ペリー来航の時に江戸に出た周はオランダ文典を勉強し洋学に興味を持った。25歳のとき、西洋の文化、学問を学ぶ重要性を痛感した周は決死の覚悟で脱藩し、洋学研究に専念した。1855年26歳で、徳川幕府の「藩書調所」の教師となった。
彼の才能を認めた幕府はオランダ留学を命じた。1862年33歳のとき、周はオランダのライデン大学でフィセリングに法律・経済・哲学を学び、1865年帰国、開成所(東京大学前身)教授に就任し、ヨーロッパの思想を多く日本に紹介、名著「百学連環」で、多くの学術用語の訳語を創作した(下記参照)。
また、大政奉還前後、徳川第15代将軍・慶喜の政治顧問に迎えられ、訳書「万国公報」を通して国際法を説き、将軍の命令で「議題腹稿」(憲法草案)を起草した。
明治維新後、新政府勤務を命じられ、1873(明治6)年44歳の時、森有礼福沢諭吉らとともに「明六社」を結成し、機関誌「明六雑誌」をおもな舞台として、明治初期の文明開化政策の推進などに大きな啓蒙的役割を果たした。1879(明治12)年に東京学士院会長に選ばれ、翌年には、「軍人勅諭」の草稿を書き上げた。
東京高等師範学校の初代校長にも就任した。1890(明治23)年、貴族院議員に任じられたが、体力の哀えが激しく翌年辞任した。
明治以降は啓蒙思想家として活躍し日本で最初に西洋哲学を紹介し、明治文化の功労者の一人として我国哲学界の先駆者である。
周は多くのことばを創作したが、外国語を日本語の漢字に訳す場合、漢字にはそれぞれ意味が含まれているので、誤った使い方をすると誤解される危険性がある。
また、いくら創作してもそれが正しく一般的に使われなくては意味をなさない。
仕事で使うことばにおいても、業界でしか通用しない用語やその会社でしか通用しないことば、また今だけ流行していることばや商品名もあるので、あいまいに使わないようにしなくてはいけない。
近頃はもっともらしい当て字などでおもしろおかしく使う場合があるので要注意だ。

西周の創作した訳語●
「化学」のことを、明治のはじめまで舎蜜(セイミ)といっていた。
オランダ語の発音に漢字をあてはめたものである。
これを「化学」という日本語にした。
「学術」 science and art 「科学」 science 「技術」 mechanical art 器械の術 「芸術」 liberal art 上品の術 「哲学」 philosofphy 希哲の学→哲学
「主観」「客観」「本能」「概念」「観念」「帰納」「演繹」「命題」「肯定」「否定」「理性」「悟性」「現象」「知覚」「感覚」「総合」「分解」「心理学」「意識」「知覚」「感覚」「抽象」「主観」「客観」などなど…。
これらはすべて、西周が作った学術用語の訳語である。
今ではすっかり日用語として定着している言葉ばかりだ。
彼が近代日本の思想界に与えた影響の大きさがうかがえる。



西周の本
  鴎外歴史文学集〈第1巻〉西周伝・能久親王事蹟・玉篋両浦嶼・日蓮聖人辻説法
  日本の名著 (34) 西周・加藤弘之 (中公バックス)
  西周に於ける哲学の成立―近代日本における法哲学成立のためのエチュード (神戸法学双書 (20))
  西周夫人升子の日記
  西周と欧米思想との出会い
西周夫人升子の日記鴎外歴史文学集〈第1巻〉西周伝・能久親王事蹟・玉篋両浦嶼・日蓮聖人辻説法