自身を制御しようと   

橋本左内

きょうは幕末の勤皇の志士 医師 政治思想家 橋本左内の誕生日だ。1834年生誕〜1859年逝去(25歳)。
越前福井藩藩医橋本長綱の長子として生まれる。学問が好きで10歳の時には「三国誌」を通読していたそうだ。1848年14歳で「啓発録」を著した。翌年、大坂 緒方洪庵適塾で医学・蘭学を学んだ。帰郷して家督を継ぎ19歳で藩医となった。1854年江戸へ出て蘭学に磨きをかけ西洋学を学んだ。
その一方で、藤田東湖西郷隆盛ら諸藩の志士と交流し、時局に目覚めた。その才能卓説を嘱望されて御書院番となり、1857年23歳のとき、藩校明道館学監として学制改革に尽力した。実学を尊重し洋書習学所も設立し、儒教道徳を根幹に封建支配補強のため人材育成をはかった。
藩主松平慶永に重用され中根雪江由利公正らと藩政改革に手腕をふるい、物産振興の裏打ちによる、積極的開国貿易論を提唱し、攘夷開国論へ導くなど手腕を振るった。
将軍継嗣問題では藩主松平慶永を助け、幕藩体制の再建強化と親露・反英・親米の開国論をもって方々に運動した。また一橋慶喜の将軍継嗣擁立を推し、朝廷の説得に奔走し、統一政権の実現、日露提携を主唱した。
しかし1858年24歳の時、反対派井伊直弼大老就任により、左内の運動は破れて藩主慶永は謹慎、左内も入牢となった。そして「安政の大獄」で、身分を越えた行為として死罪を申し渡され、江戸伝馬町の獄舎で処刑され、25歳の若さで無念の死をとげた。
左内はあまりにも俊秀であったがために、反対派にとって敵にまわすと恐い存在になり、結局若くして先を絶たれてしまう。左内も自分を知っていたために、「啓発録」で自身を制御しようとしているが、できなかった。
企業において、優秀な人は重宝されるべきだが、自分の優秀さを自覚していない人ならまだしも、自分は優秀だと思っている凡人もいる。理屈通りにいかないから、人の才能を生かすのは難しいし、最も重要な課題である。

★ 啓発録 ★
 左内が14歳の時に自分自身を励ますために書いたもの。
第一 「稚心を去る」
  おさない心をすっかり捨てなければならない。
  おさない心のある間は、いつまで立っても本気で勉強はできない。
第二 「気を振う」
  常に油断なく頑張る気持ちを持たなければならない。
第三 「志を立てる」
  目標をはっきり定めなければならない。
  心を一筋に決めてかかれば、どんな偉い人にでもなれる。
第四 「学を勉める」
  真に自分の知識を豊かにし、心を練り鍛えなければいけない。
第五 「交友を択ぶ」
  友達は皆仲良くすべきだが、友達には益友と損友とがある。
  友達を択ぶことは勉強するものにとって大変大切なことだ。



橋本左内のことば
  「学問は生涯を通じて心掛けねばならない」


橋本左内の本
  啓発録 (講談社学術文庫)
  英完訳「啓発録」
  国民学校一年生―ある少国民の戦中・戦後
  牧師が読む般若心経―もう一つの発見
  君よ、志を持って生きてみないか―橋本左内『啓発録』を読む
  麒麟 橋本左内 (学研M文庫)
  橋本左内
麒麟 橋本左内 (学研M文庫)英完訳「啓発録」啓発録 (講談社学術文庫)