世界の流れがついていく   

石橋正二郎

きょうはブリヂストンの創業者 石橋正二郎の誕生日だ。
1889年生誕〜1976年逝去(87歳)。
福岡県久留米市に仕立物屋「志まや」の次男として生まれる。1906(明治39)年、久留米商業を卒業、進学を断念し家業の仕立物業を兄と共に継いだ。翌年、家業の仕立物業を足袋(たび)専業とし、1918(大正7)年29歳で、日本足袋株式会社を設立し、徒弟制度の廃止、賃金制度の導入をした。
1923(大正12)年33歳の時、足袋の裏にゴムを貼り付けるという斬新なアイデア地下足袋を考案した。当時、わらじが一般的だった日本でゴム底の地下足袋は滑りにくく、強度もあり、炭鉱での試用が好成績を収め、農業、建築などに携わる人に売れに売れ、事業を拡大し全国的な企業へ発展させた。
その後、石橋は将来のモータリゼーションを確信し周囲の反対を押し切って、1931(昭和6)年42歳で、久留米市ブリヂストンタイヤ株式会社を設立し、純国産の自動車タイヤの製造を開始した。社名の由来は、石橋の石(ストーン)と橋(ブリッヂ)を逆さから読み「ブリヂストン」としている。なお兄は日本足袋の経営に専念し、戦後も事業を拡大させた。
当時日本の自動車はわずか5万台であり、その足はグッドイヤーミシュランダンロップ等の外国勢だった。設立当初の評判は最悪で、クレームが続出したが、石橋は地道にタイヤの改良を重ねていった。
1942(昭和17)年、太平洋戦争にともない、社名を日本タイヤ株式会社に変更し、本社を東京・京橋に移した。1945(昭和20)年、終戦により海外資産の一切を失った。
1948(昭和23)年、基礎研究・技術開発を目的として久留米工場内に研究所を新設した。そこで世界との技術力の格差を縮めるための新技術、レーヨンコードに挑戦した。ひるむ技術者を叱咤激励し国内他社に先駆けてレーヨンコードを導入したことが、さらにナイロンタイヤ、スチールラジアルタイヤブリヂストンのタイヤを世界に認めさせる花形商品の開発に繋がっていった。
1951(昭和26)年、社名をブリヂストンタイヤ株式会社に復旧させた。満州事変から太平洋戦争へと時代の強烈な追い風や、戦後復興による自動車台数の激増、また社内においては全社的品質管理活動(TQM)の推進などにより、ブリヂストン(現 株式会社ブリヂストン)は世界有数のタイヤメーカーに育った。
この大成功により、石橋は「タイヤ王」とよばれた。1928(昭和3)年、九州医学専門学校(現 久留米大学)の設立を支援。1952(昭和27)年、東京・京橋のブリヂストンビルの2階にブリヂストン美術館を開館。1956(昭和31)年、石橋財団を設立して理事長に就任、同年、ブリヂストン創立25周年を記念し久留米市石橋文化センター/石橋美術館を建設し寄贈。1963(昭和38)年、石橋文化センターに文化ホールと文化会館を建設し久留米市へ寄贈。1969(昭和44)年、東京国立近代美術館を新築し寄贈した。
また日経連・経団連常任理事なども務めた。2002(平成14)年「日本自動車殿堂」入りした。
石橋はアイデアマンであるが、先を読む力に優れ、こうと思ったらできるまでやり抜く粘り強さもある。そのような姿勢に世界の流れがついていくといった感じだ。また利益は文化事業に還元するという姿勢もすばらしい。
先を読む力というのは経営者にとって重要な資質である。これは過去を知り、現在の小さな変化をいかに大きくつかむかと言うことのようだが、最終的にはカンになるのだろうか。お金だけに目が向き、文化を理解する感性に欠ける人には無縁の資質かもしれない。


石橋正二郎のことば
  「事業は良い計画を立て、時を活かすことにより成功する。
    先の先を見透かして事業を始める。
      気は長く持つが、行う時は気短でなければならぬ 」

石橋正二郎の本
  創業者・石橋正二郎―ブリヂストン経営の原点 (新潮文庫)
  大きな夢をタイヤにのせて―人びとのための生産をねがいつづけた石橋正二郎 (PHPこころのノンフィクション)
  ブリヂストンがグッドイヤーを抜き去った日
  タイヤ百科 (ミニ博物館)
ブリヂストンがグッドイヤーを抜き去った日大きな夢をタイヤにのせて―人びとのための生産をねがいつづけた石橋正二郎 (PHPこころのノンフィクション)