考え方や人間性が秀でて  

大塩平八郎

きょうは江戸後期の陽明学者、大坂町奉行与力 大塩平八郎の誕生日だ。1793年生誕〜1837逝去(44歳)。
大阪天満で町奉行所の与力の息子として生まれた。号は中齋。子供の頃から武芸・学問にすぐれて、大坂奉行高井山城主の信任に厚かったようだ。はじめは江戸の林家に入門し朱子学を学んだが、のち陽明学に転向し、高い学徳を身につけた。
26歳で家職の与力を継ぎ、学問の余暇を利用して武術を修練し、刀・銃・弓・槍の法を悉く習熟し、特に槍術は関西第一と称せれるほどだった。
27歳の時、高井山城守実徳に重用され、大坂町奉行配下の与力から吟味役となり、裁断に敏腕をふるい名声を高めた。
1830年37歳の時、高井辞職と同時に自らも役人を辞め、洗心洞という陽明学の私塾を開き、大坂の与力や同心や近隣の豪農とその子弟などに教授した。
1837年、天保の大飢饉のとき、奉行や富豪が救済手段を講じないのを案じ、東町奉行跡部良弼に窮民救済を申し出るが聞き入れられず、やむを得ず、武力によって窮民を救済しようと心に決めた。
翌年、自分の蔵書5万冊を売却してその金を窮民一万名に配付するとともに、檄文を近隣の4国の農民に配布し、2月19日、同志数十名とともに大坂船場の富豪宅に放火し、略奪を開始した。世にいう「大塩平八郎の乱」である。
大塩の決起は奉行の手勢に敗れ、わずか1日にして鎮圧された。しかしその後に大きな影響を与えた。生田万の乱もその一つだ。
大塩は逃亡するが、約40日後、潜伏中に発見され自刃した。
大塩は文武ともに優れていたようだが、役人であった人間がいざという時、民間の側に立って奉行に意見し闘うということは、考え方や人間性が秀でていることに加え勇気もあったのだろう。それにしても44歳の時、蔵書が5万部あったというのだからとてつもない勉強家だ。
企業に勤めていても、会社や上司の考え方に疑問を持つことは少なくない。
そのような場合、ほとんどは折れてしまう場合が多いが、黙って引き下がるのではなく、できれば見解だけは相手に伝わる工夫をしたい。「社内の乱」は極力避けたいものだ。


大塩平八郎の本
  大塩平八郎起つ (広済堂文庫)
  「乱」大塩平八郎 (広済堂文庫)
  天討―小説・大塩平八郎の乱
  大塩平八郎―構造改革に玉砕した男
  鴎外歴史文学集〈第2巻〉阿部一族・大塩平八郎・堺事件ほか
鴎外歴史文学集〈第2巻〉阿部一族・大塩平八郎・堺事件ほか大塩平八郎―構造改革に玉砕した男天討―小説・大塩平八郎の乱