文化を大きく変えた   

高柳健次郎

きょうは電子技術者、テレビの父 高柳健次郎の誕生日だ。1899年生誕〜1981年逝去(82歳)。
静岡県浜松市安新町に生まれた。幼い頃は「お姫様」とあだながつくほど痩せた目立たない子供だったが、機械の構造や作り方には好奇心旺盛だったようだ。高等科で教育熱心な渡瀬晴吉先生に巡り会い教師を目指した。卒業後は教師にならなければならない当時のきまりがあったが、子どもの頃から電気への憧れがあり、1921(大正10)年、東京高等工業学校電気科(現 東京工業大学)に入学した。
ここで教授の中村幸之助から「今流行している技術をやりたがってはダメだ」「将来の日本になければならない技術を10年、20年かけて取り組むこと」を指導され、無線やラジオを越え、遠方の光景が即座に送られ再現できるという「無線遠視法」の夢を大きく抱いた。1923年24歳の時、自らの人生をテレビの開発にささげる決意をした。当時、日本ではラジオ放送も開始されていなかった。
そして1924(大正13)年、浜松高等工業学校(現 静岡大学工学部)に助教授として赴任すると、テレビジョンの研究を始めた。テレビジョンということばすらあまり知られていない時代だった。
二十世紀に入ってテレビの研究が進み、欧米でもテレビの実験が始まっていたが、当時はブラウン管を使用しない機械式受像装置が脚光を浴びていた。ブラウン管は当時いまだ大型化が成されていなかったからだったが、高柳は将来生き残るのは全電子式以外にありえないと確信していた。
高柳は成功する可能性が極めて少ないとされていた「電子方式」で独自の研究を進めた。しかし浜松で一人の助っ人もなく研究費に苦労していた彼は、学校の倉庫の中で実験機具をほとんど手製で作って実験を繰り返した。
失敗と改良を繰り返し、ついに1926(大正15)年12月25日、世界で始めて開発した走査線40本の特殊ブラウン管の上に「イ」の字が再生された。
これが日本初のテレビ映像だった。しかし当時のブラウン管は非常に暗かったため、暗箱に入れてのぞき窓から眺めたものだった。
この実験の成功を機に、徐々に彼の助っ人たちは増えていった。高柳もテレビ放送の実現に向けて研究を続けた。
1930年、31歳の高柳はコンデンサを用いた電子式撮像管を考え付いて特許を申請した。これを改良し、1935年36歳のとき走査線220本の全電子式テレビがついに実現した。そして彼は「テレビの父」として歴史にその名を残した。以来日本におけるテレビ放送の実用化に大きく貢献した。
しかし、夢物語のようなテレビ開発までの道のりは長く、全電子式テレビジョン完成は1936(昭和11)年、日本最初のテレビ本放送開始は1953(昭和28)年になってからのことだ。
こうして、日本でもテレビ時代を迎えることになった。「イ」という文字をブラウン管に映し出して30年という時間がたっていた。
高柳は、NHKの研究所でテレビ実用放送の研究に携わったが、太平洋戦争のためにテレビの研究からは遠ざかり、戦後はGHQの指示で公共事業であるNHKへ戻ることを禁止され、日本ビクターで副社長、技術最高顧問などを歴任し、テレビ技術の改良や技術者の育成に尽力した。その後、VTRの開発へ取り組み、やがて後輩によってVHSとしてその取り組みが開花した。
今では一人一台といわれ、当たり前のようにテレビ画面を見ているが、このテレビの誕生には、未来を見つめながら自分のテーマを追い続けた高柳の功績があったことを忘れてはならない。彼の功績はまた、企業の枠を超えた日本の電子産業の発展と、それを担うべき人材の育成に尽力し、浜松の光産業発展の足掛かりにもなった。
テレビが良いか悪いかは別として、人類の文化を大きく変えたことは確かだ。問題は、その偉大な発明を有効に使うかどうかだ。娯楽や暇つぶしにばかり使うのも問題だし、情報だ教育だとばかりいうのも堅苦しい
企業においては、パソコンの画面とか機械のディスプレーが多いが、今後はどのような使い方がいいか、何人かで知恵を出し合ってみるのもおもしろい。


高柳健次郎の本
  テレビ事始―イの字が映った日
  未来をもとめてひたむきに―テレビの研究ひとすじに生きた高柳健次郎 (PHPこころのノンフィクション)
  幻の東京オリンピック―高柳健次郎伝 (村越一哲戯曲集 (2))



未来をもとめてひたむきに―テレビの研究ひとすじに生きた高柳健次郎 (PHPこころのノンフィクション)





   初めて映し出された映像