悲劇が起きる場合が   

大杉 栄

きょうは明治・大正期の社会運動家アナキスト 大杉 栄の誕生日だ。1885年生誕〜1923年逝去(38歳)。
職業軍人 大杉東の長男として香川県丸亀市に生まれる。名古屋幼年学校にはいるが腕白で、叱った先生に唾をひっかけるほどの気性の激しい子供だったらしく、放校になっている。1902年17歳の時上京し、東京学院に入学、本郷会堂で洗礼を受けた。
その後、東京外国語学校仏語科に入学。外交官になろうとして失敗するが、頭脳が非常に秀でていたようだ。在学中から幸徳秋水堺利彦らの平民社に出入りし、電車賃値上げ反対運動・筆禍事件・屋上演説事件・赤旗事件など社会運動に奔走し数回入獄した。合計6年間の獄中生活で6カ国語をマスターし、出獄後は思想家として、若者の支持を得た。
一方では女性関係のスキャンダルも激しかった。1915年「仏蘭西文学研究会」を開講し、生徒の神近市子と結ばれている。1916年伊藤野枝と同棲を始めるが、この年 葉山日陰茶屋で神近市子に刺された。1917年32歳の時、野枝との間に長女・魔子が生まれた。
大逆事件後のいわゆる「冬の時代」で沈滞した社会主義運動陣営内にあって、1912年27歳のとき荒畑寒村と雑誌「近代思想」、2年後「平民新聞」を創刊して運動の拠点とした。さらに1919年には「労働運動」を創刊し、経済的直接行動主義を主唱し、また国際無政府主義運動において活躍した。
この間 評論・翻訳を中心とした文筆活動によって、アナキズムの理論的旗手として活躍した。当時のマルキシズムアナーキズムとの対立(アナ・ボル論争)において、アナキズムが優勢を勝ち得たのは、多分に大杉の卓越した力量によると言われている。天才的な語学力と持ち前の行動力に裏打ちされた“反権力・反道徳”の言行は、社会主義運動史上に多くの挿話を残した。
1923年関東大震災の混乱に際して、内縁の妻伊藤野枝、甥橘宗一とともに官憲大尉甘粕正彦らに拘束され、同日取調中に絞殺された。3人の死体は隊内の古井戸に投げ込まれ隠蔽されたが、やがて警察の知るところとなり、甘粕大尉は捕らえられ懲役10年の刑を受けた。
大杉は大正・昭和の思想界では、アナキズムの旗頭だったが、ファーブルの「昆虫記」を日本で最初に翻訳した人物であり、ダーウィンの「種の起源」の翻訳もある。思想的行動家の面と学究的な面の両方を持ち合わせていたのだ。
頭が切れすぎるというか秀才でありすぎるために、その才能の使い道に困るぐらいなのだろうが、世の中の流れに対して早過ぎたり、方向が違うと衝突が起きてしまう。これにうまく対処しないと悲劇が起きる場合がある。この事態は衝突した双方にとって得にならないことが多いようだ。
企業においても、いくら正しいことでも説明無しで突き進んでしまうと、反発を招き、失敗に終わることがある。やはり十分に話し合いをして納得のうえで実施することが望ましい。


大杉 栄のことば
  「生は永久の闘いである。永久に解決のない闘いである」
  「自由と創造とは、これを将来にのみわれわれが憧憬すべき理想ではない」
  「人生とは、予め定められた、出来上がった一冊の本ではない。
   人生は白紙の本である。各人がそこへ書いてゆくもの。
    人生とは闘いである」


大杉 栄の本
  大杉栄評論集 (岩波文庫)
  大杉栄自叙伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)
  探偵大杉栄の正月 (ハヤカワ・ミステリワールド)
  神に祈らず―大杉栄はなぜ殺されたのか
  海の歌う日―大杉栄・伊藤野枝へ--ルイズより
神に祈らず―大杉栄はなぜ殺されたのか探偵大杉栄の正月 (ハヤカワ・ミステリワールド)大杉栄自叙伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)大杉栄評論集 (岩波文庫)




  
 内縁の妻 伊藤野枝  甥 橘宗一