怪文書が出回る   

伊藤整

きょうは小説家、詩人、評論家 伊藤 整(いとう ひとし)の誕生日だ。
1905(明治38)年生誕〜1969(昭和44)年逝去(64歳)。
北海道松前郡に昌整を父としタマを母として生まれる。5歳から忍路(おしょろ)郡塩谷村に住み、塩谷小学校、小樽中学校、小樽高等商業校(現 小樽商科大学)を卒業した。島崎藤村の詩に感動し、早くから詩作をはじめた。このとき小林多喜二高浜虚子の長男が一学年上にいたが、彼らとのつきあいはなかったようだ。卒業後、新設の市立小樽中学校の英語教諭となった。
伊藤は、上京の口実を作るために受験した東京商科大学(現在の一橋大學)に合格し、一年間中学教師をして学費をためた後、上京した。東京商大では内藤濯のフランス文芸思潮ゼミナールのただ一人の学生となった。
また北川冬彦の紹介で同じ下宿屋に入ったことから、三好達治ら「青空」の関係者と親交をむすんだ。この頃、詩集「雪明かりの路」を自費出版し、前衛派が台頭しはじめた状況の中では時代遅れだったが、平明な自由詩で好感をもってむかえられている。その後、中途で大学を辞め、文筆活動に入った。
この頃から、小説と批評を精力的に発表し、ジョイスをいち早く日本に紹介した。1931年26歳の時、ジョイスの「ユリシーズ」翻訳の上巻を、1932年には第一評論集「新心理主義文学」と第一創作集「生物祭」を刊行した。「ユリシーズ」は1934年に完成し、翌年、ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」削除版を翻訳出版した。1941年に出版した「得能五郎の生活と意見」は自分自身の人生に材をとった作品で、以後、自伝小説は伊藤の創作の一方の柱となった。
大戦中は北海道に疎開し、徴用で工場勤めを経験するが、1946年41歳の時、東京にもどり、自伝的かつ実験的長編「鳴海仙吉」を発表し始め、曲折の末、4年後上梓された。
1950(昭和25)年45歳のとき、「チャタレイ夫人の恋人」完訳版を刊行するが、検察庁は猥褻文書とし、伊藤を起訴した。日本ペンクラブと文芸家協会は伊藤を支持し、全面対決となった。翌年から「チャタレイ裁判」が始まり、1957年に最高裁が上告を棄却し、最終的には訳者・出版者とも有罪とする二審判決が確定する。この間の事情は記録小説「裁判」に詳しい。なお、「チャタレイ夫人の恋人」完訳版は、1996年に、次男の礼によって補訳刊行された。
伊藤はこの間、日本大学北海道大学早稲田大学で文学語学を講じ、また1958年53歳で東京工業大学の教授になった。その後日本近代文学館ゝ長となり日本ペンクラブ副会長、文芸家協会理事も歴任した。
1955年には、青年時代を回顧した自伝小説「若い詩人の肖像」を、1958年には、「氾濫」を上梓した。
1952年から「群像」で連載をつづけた「日本文壇史」は18巻で途絶したが、旧友の瀬沼茂樹が書きつぎ完成させた。
チャタレイ夫人の恋人」完訳版が刊行された1950年の時代に、それが猥褻であるかどうかは別として、現代において、いちおう規制はあるのだろうが、猥褻文書や画像が氾濫している。読んだり見たりする側の判断に任せると言った感じであり、子どもに対してはそのような教育をしなければいけない。
企業においても、会社や個人を批判したりセクハラまがいの、いわゆる怪文書が出回ることがあるが、これはモラルの問題であり、会社の風土の問題だ。文書の内容も問題だが、会社の風土作りについて検討しなくてはいけない。

伊藤整の父●
父 昌整は広島県三次市の出身で、日清戦争に出征した後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡った。任地でタマと結婚し、土着して小学校の代用教員となった。日露戦争に従軍後、塩谷村(現在の小樽市塩谷町)の役場につとめ、同村に一家をかまえた。

伊藤 整のことば
  「やっといま人生が分かったと思う時、
   自分は溌剌とした草や木の生い繁る人間の森から
    もう出はずれる所へ来ている」
  「何処か遠い国の都会をもう一人の私が歩いているようだ」 


伊藤 整の本
  日本文壇史1 開化期の人々 (講談社文芸文庫)〜(18)
  若い詩人の肖像 (講談社文芸文庫)
  裁判〈上巻〉(下巻)
  氾濫 (新潮文庫 い 9-3)
  完訳チャタレイ夫人の恋人 (新潮文庫)
  伊藤整論
完訳チャタレイ夫人の恋人 (新潮文庫)裁判〈上巻〉若い詩人の肖像 (講談社文芸文庫)日本文壇史1 開化期の人々 (講談社文芸文庫)