法律は問題にならない   

新島襄

きょうは明治時代の教育家、宗教家 新島 襄(にいじま じょう 本名:七五三=しめた)の誕生日だ。1843年生誕〜1890年逝去(47歳)。
江戸神田一橋の安中藩主板倉家江戸上屋敷に生まれ、当時 新島七五三(しめた)と言った。安中藩は今の群馬県安中市にあった藩で、新島襄の旧宅が残っている。新島襄安中藩漢書蘭学などの学問に励み、また17歳の頃 幕府の軍艦教授所に通い航海術なども修得した。また漢訳聖書を読んで感動し、神への畏敬と救国の理想に燃えたようだ。
当時、鎖国政策をとっていた日本に対して、米、英、露など諸外国は開国を迫り、相次いで艦船で寄港した。国内では、開国論に加え、尊皇攘夷論までが噴出し大変な混乱期にあった。こうした中、新島襄は次第に諸外国への興味を深めていった。
そんな折り、1864年21才の時、函館の岸壁から夜陰にまぎれ小舟で沖のアメリカ船に渡り、船長の厚志でかくまわれアメリカに密航した。脱国の際、新島襄には、キリスト教を学び広めようという以前に、諸外国の知識を身につけ、混乱期の日本を理想的な将来に導こう、という考えが強かったようだ。
彼はアマースト大学(理学)およびアンドゥブァー神学校などで10年の研鑽を積んだ。1866年23歳のとき洗礼を受けキリスト教徒となった。
時代は移り変わり、日本は明治となった。学校令を公布したことで知られる森有礼駐米大使の斡旋で日本への帰国も認められた。1872年岩倉使節団随行して欧米の教育制度を視察し、1974年30歳で帰国した。
故郷・安中を振り出しにキリスト教の伝導活動を開始し、翌1975年、山本覚馬氏(当時の京都府顧問)、宣教師デイヴィス博士とともに京都に同志社英学校を設立した。1976年32歳で山本覚馬の妹八重子と結婚した。
1880年、学生のストライキに対し、新島襄は学生を罰せず自らの左の手をむち打ったということで「愛の教育家」として評価されている。1888年「同志社大学設立」を発表した。当時8名に過ぎなかった学生は現在約3万名を数え、私学同志社は一大総合学園に発展した。キリスト教的自由自治主義の教育原理を強調し、数多くの要人、知識人を輩出している。
京都の新島襄の旧宅は同志社英学校があった場所だそうだ。ちなみに今の同志社今出川キャンパスは薩摩藩邸跡だ。
新島襄は夢を実現するために法律を破ってアメリカに渡るが、21歳という若さもあったのだろうがやはり大きな夢に対し、国の法律は問題にならないぐらい小さいものだったのだろう。それにしても21歳の若者を受け入れ教育をするアメリカ人の寛大さには感心する。また帰国を許した当時の幕府もたいしたものだ。
その判断により新島襄のその後の活躍があり、それによってどれほど多くの優れた人物が育ったか計り知れない。
企業においても、大きな目的のためのルール違反が時折有るが、その判断いかんでは、ルール違反をした人が生きることも死ぬこともある。またその判断で企業の存続が左右されることがある。これこそ経営者の判断力そのものだ。

●七五三(しめた)と襄(じょう)●
彼の本名は七五三(しめた)といい、これは女性が4人続いて生まれたあとの初めての男子だったのを喜んだ祖父が「しめた 」と言って膝をたたいたためとか。また、生まれたのが1月の松の内でもあり七五三(しめ)飾がしてあったから、という説もある。 襄(じょう)という名前は、アメリカへ密航するときの船の船長が、彼のことをジョー(JOE)と呼んだからのようだ。後日、JOEは旧約聖書の中で、自分の民族を救う人物「JOSEPH(ヨセフ)」から来ていることを知った彼は、ジョセフ・H・ニイジマと名乗り、帰国してからは、ジョーに襄を当て、新島襄と名乗った。

新島襄のことば
  「一国の良心ともいうべき人々を育成する」
  「真の友を求める人は、まず自分自身が真実でなければならない」

新島襄の本
  新島襄―わが人生 (人間の記録)
  現代語で読む新島襄
  新島襄全集を読む
  新島襄とその妻
  新世界に学ぶ―新島襄の青春 (ちくま少年図書館 93)
  新島襄全集を読む現代語で読む新島襄新島襄―わが人生 (人間の記録)