真実を知るためには   

河口慧海

きょうは仏教学者でチベット探検家 河口慧海(かわぐち
えかい 幼名:定次郎)の誕生日だ。
1866年生誕〜1945年逝去(79歳)。
明治維新の2年前に現在の大阪府堺市に生まれた。12歳で小学校を退学し、家業の桶樽(おけ・たる)の製造に従事するが、学業への意欲を抑えることが出来ず夜間学校で学び、同志社に入学するが学費が続かず数ヶ月で退学した。
この頃「釈迦一代記」という本を読み、これが彼の一生の運命を決定することになる。19歳の時、徴兵令改正に不当を感じ、天皇へ直訴をしようと上京した。これは失敗に終わったが家には戻らず、長柄の正徳寺で参禅した。翌年、正徳寺を抜け出し摂津箕面勝尾寺の山中で一週間座禅をした。ここで「充分に学問をした後に考えるようにしなければならない」と悟った。
そして堺の晩晴塾で土屋鳳洲から漢学を学び、宣教師コルベー女史からは英語を学び、聖書も勉強した。
23歳で上京し哲学館(現、東洋大学)へ入学した。1890年25歳で、五百羅漢寺住職より得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられ僧籍に入った。その後住職の隠退で同寺の住職となった。26歳で哲学館を終了した。
この頃宇治の黄檗(こうばく)宗教会に寄宿し一切蔵経を読み始めた。一切蔵経を読んでいるうちに、宗派内、仏教界の腐敗・怠惰に失望と怒りを覚え、また漢訳仏典に不備を感じた慧海は、それらを立て直すためには、梵語(ぼんご:インド古代の言語)およびチベット語の研究と同経典の入手により、真の仏教を日本に伝播することであると決意した。
6年間 周到な準備を行い、1897年6月、32歳の慧海は単身で神戸を出帆し、鎖国チベットへの潜入を図った。まずインドのカルカッタ経由でダージリンに赴き、ここでチベット語を学んだ。そして1899年、鎖国制度をしき入国は極めて困難であったネパールへ入った。そして徒歩でヒマラヤ山脈を越えるという、文字通り命がけの旅により、誰もが入ることが出来ないと言われたチベットへ入り込み、ようやく慧海の念願は果たされた。
後年、慧海は僧籍を返上し、在家の立場で仏教の研究や普及につとめ、また大正大学の教授としてチベット語の研究に専念した。
真実を知るためには発祥の地で学ばなくてはいけない、という信念のもと、慧海の旅が始まるわけだが、百年以上も前に未知の国へ単身乗り込もうとする勇気と使命感はどのようにして生まれるものなのか、想像もつかない。
会社においても、新製品の新規開拓などで未知の分野へ乗り込むことがあるが、やはり相当な準備に加え、勇気と使命感が要求される大仕事だ。しかしこれを成し遂げた者だけが達成感を味わうことができる。


河口慧海のことば
  「米寿の祝いができ、長生きのできる人生が尊いのではない。
   地位を得たり名誉を得たり、お金を得たりできる人生が尊いのではない。
    ただいまに道を求めて精進できる人生が尊いんじゃ」


河口慧海の本
  チベット旅行記〈上〉 (白水uブックス)(下)チベット旅行記〈上〉 (白水uブックス)
  河口慧海―日本最初のチベット入国者河口慧海―日本最初のチベット入国者
  評伝 河口慧海
  展望 河口慧海論展望 河口慧海論