楽しんでやり遂げた   

伊能忠敬

きょうは江戸時代に日本地図を作った測量家 伊能忠敬  (いのうただたか)の誕生日だ。
1745年生誕〜1818年逝去(73歳)。
上総国(千葉県)九十九里浜沿岸の網元 小関家に生まれる。幼少時に母を亡くし、婿養子の父は実家に戻って再婚したが、そこにも落ち着けず、17歳で下総国 佐原の酒造家・名主である伊能家の養子になり、忠敬と名を改めた。造酒業、米穀の取引など家業に精を出すとともに、名主として困窮する村民を救うなど村政にも尽力した。
早くから暦学を好み、天体観測も行なった。
家を長男に譲って隠居、1795年50歳のとき江戸深川黒江町に転居し、暦学者 高橋至時(よしとき)に師事し西洋の測量・地理・暦法を学んだ。
当時問題となっていた改暦のためには、緯度1度の距離を知る必要があり、そのために高橋至時蝦夷測量の必要性を幕府に説き、1800年55歳の伊能忠敬にその仕事を任せた。
やがて幕府は、国防の観点からも日本地図の作製に関心を持つようになり、幕府の事業として全国の測量を始めた。
伊能忠敬らの測量は、1816年までの17年間 実測日数3736日にわたって全国各地を実測、その測量距離39000kmは、地球1周分にも匹敵する。
忠敬は地図の製作にあたり、道線法(どうせんほう)と交会法(こうかいほう)という当時の測量方法に加え、天体観測を導入することで、正確を期した。
その測量結果をもとに「大日本沿海輿地(よち)全図」の作成にとりかかったが、忠敬は完成を見ずに亡くなった。高橋景保(かげやす・至時の子)がこれを受けつぎ、江戸時代の地図学史上の金字塔とされる、わが国最初の実測日本地図をつくりあげた。この地図は経線に若干のずれがある等のいくつかの欠点があるものの、19世紀初頭の世界水準を示す優れた地図であった。
1863年にイギリス海軍が日本付近に測量隊を派遣したが、日本にはすでに伊能忠敬の地図があることを知り、この写しを入手し測量は中止して帰国する、ということがあった。欧米人の手を借りずに自分の国の正しい地図を作ったのは、アジアでは日本だけだった。
現代のように人の寿命が長くない江戸時代において、55歳から大きな仕事にとりかかり、それを成し遂げたことに敬服してしまう。
その困難な仕事を楽しんでやり遂げたというからすばらしい。
企業においては、通常60歳が定年だが、80歳を越える寿命の時代であり、その20年間を何もせずブラブラとすごすよりも、少しでも社会に対して恩返しをするように務めるようにしたい。

シーボルト事件★
1828年、シーボルトが帰国の際、国外持出し禁止の日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、国外追放になった。これに関係し地図をおくった日本の蘭学者高橋至時の息子景保ら)など多数の門人が処罰された。 ●シーボルト
ドイツの医師、博物学者。日本研究をめざし、1823年に長崎出島のオランダ商館つき医師として来日した。長崎郊外に鳴滝塾を開き、病人の治療とともに門人に西洋医学や自然科学を教えた。門下から高野長英など多数の学者が出た。また日本に関する資料を多く集め、帰国後「Nippon」をあらわしヨーロッパに日本を紹介した。



伊能忠敬の本
  定年名人 伊能忠敬の生き方―定年が待ち遠しくなる本
  伊能忠敬測量隊伊能忠敬測量隊
  白輪―小説・伊能忠敬白輪―小説・伊能忠敬
  伊能忠敬―生涯青春 (人物文庫)伊能忠敬―生涯青春 (人物文庫)


 楽しそうに測量する忠敬

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