温度差があった   

島村抱月

きょうは明治大正期の文芸評論家、新劇運動家 島村抱月しまむらほうげつ)の誕生日だ。1871年生誕〜1918年逝去(47歳)。
島根県金城町小国に生まれた。本名は佐々山瀧太郎。幼少の頃は父の勤務地を転々とした。その後住み込みの薬局店員、裁判所の給仕などしながら勉学に励んだ。裁判所で上司の島村に認められ、島村家の養子となる。島村の援助により東京専門学校(早稲田大学)文学科に入学、在学中は文学を坪内逍遙に、哲学を大西祝に学び、文学と哲学の交点として美学の研究に深い関心を抱いた。卒業後「早稲田文学」の編集者、「読売新聞」の記者、母校の講師をへて、1898年27歳のとき三省堂の辞書編集に携わった。
1902年31歳でイギリス、ドイツに留学、3年後帰国し早大教授として美学、文芸史などを講じ、評論家として活躍、自然主義文学の理論的支柱となった。
この間1906年35歳で坪内逍遥らと文芸協会の設立に関わり、西洋演劇の普及につとめ、多くの後進の指導に尽力した。
しかし1913年42歳のとき、文芸協会内の逍遙と門下生の新旧思想の対立や、女優松井須磨子との不倫のため、早大教授の職を辞し文芸協会を脱会、須磨子を中心とした芸術座をつくった。トルストイ原作の「復活」を海外公演を含め全国で巡回公演し、劇中で歌った「カチューシャの唄」が空前のヒットとなった。
上演劇の翻訳や創作劇を執筆し、演出家、劇団経営者として新劇の大衆化に大きな役割を果たし、日本近代文芸界の巨星と謳われた。
1918年47才で病死し、その2ヵ月後の命日に松井須磨子が同じ場所、同じ時刻に、抱月と自分の写真を並べ、花と線香をたむけた前で首を吊り後追い自殺した。二人を失った芸術座はやむなく解散した。
芸術座の存続のために若手の役者を育てようとする抱月と、抱月に認めさせ独り占めしようとする須磨子の間に、温度差があったことは確かなようだが、いわゆる芸能界ではこれが人気にもつながることがあるのでわからないものだ。
会社の中での男女の関係は、仕事の励みになるし、結婚に結びつく場合も多い。しかし道徳上問題になる事は避けなくてはいけない。場合によっては双方の業務に差し支えることもあるし、職場の雰囲気が乱れ、その会社の世間でのイメージを損なう場合もある。

 ♪カチューシャの唄♪
  作詞者 島村抱月・相馬御風 作曲者 中山晋平
カチューシャかわいや わかれのつらさ
  せめて淡雪とけぬ間と 神に願ひを(ララ) かけましょか
カチューシャかわいや わかれのつらさ
  今宵ひと夜にふる雪の 明日は野山の(ララ) 路かくせ
カチューシャかわいや わかれのつらさ
  せめて又逢ふそれまでは なじみ姿で(ララ) みてたもれ
カチューシャかわいや わかれのつらさ
  つらいわかれの涙のひまに 風は野を吹く(ララ) 日はくれる
カチューシャかわいや わかれのつらさ
  ひろい野原を とぼとぼと ひとり出て行く(ララ) あすの旅



島村抱月の映画
  女優須磨子の恋 [VHS]
  華の乱 [VHS]


島村抱月の本
  抱月のベル・エポック―明治文学者と新世紀ヨーロッパ抱月のベル・エポック―明治文学者と新世紀ヨーロッパ
  島村抱月文芸評論集 (岩波文庫)
  抱月全集 第1巻
  五行歌 抱月
  緑の朝―抱月、須磨子の性と死


    
  松井須磨子     須磨子扮するカチューシャ