家族の愛情の中で   

堀口大学

きょうは詩人 堀口大學の誕生日だ。
1892年生誕〜1981年逝去(89歳)。
長岡藩士 堀口九萬一の長男として東京市に生まれた。1894年、外交官になった父が朝鮮へ赴任するため、家族は新潟県長岡町へ移り住んだ。1903年、旧制長岡中学校(現 長岡高等学校)を卒業、翌年、慶応義塾大学文学部予科へ入学した。
1909年17歳のとき、与謝野夫妻の新詩社に入り、短歌の技法を習得する一方、与謝野夫妻の助言で詩作も始めた。そして「スバル」「三田文学」などに詩歌を発表し始めた。
911年19歳の時、父の任地メキシコに赴くため大学を中退し、その後、父についてヨーロッパに渡り、青春の大部分をすごした。その間フランス語を学びながらフランスの詩や小説に親しみ、象徴派の詩の影響を受けた。
病弱なため、外交官への道を断念し、詩作と翻訳に専心し、1919年27歳で、処女詩集「月光とピエロ」、処女歌集「パンの笛」を刊行した。
父の外交官退職とともに日本に戻り、フランス文学の翻訳・紹介に尽くし、その研究書を発表するなどして日本文学に大きな影響を与えた。特に1925年に出版した訳詩集「月下の一群」は大きな反響を呼んだ。
以後、没するまで多数の詩歌を発表し、またフランスの近・現代詩の翻訳家としても活躍し、日本の現代詩、特に口語の表現の可能性に大きく貢献した。
父親、九萬一は三歳のとき父を失い女手ひとつで育てられ、「えらくなるにはどうしても洋学をやらねばならぬ」と考えて、20歳のとき東大法学部の前身である司法省法学校に一番で合格し、1893年に第一回外交官試験に合格した。九萬一も妻を早く亡くした。外交官として卓抜な行動力を示し実績を残している。そして、ベルギーの女性と再婚し、ヨーロッパ的教養を身につけた。
彼は偉大な父親と行動を共にし、大きな影響を受けているが、父の願いだった外交官をやむなくあきらめ、詩人の道を歩んでいる。
彼の詩は「温かい人間性」が特長のようだが、やはり家族の愛情の中で大切に育てられていることが大きな要因ではないだろうか。
企業においても、厳しい中にも社員に対しやさしい経営がされているなら、明るい職場が実現でき、ぎすぎすした人間関係に悩むことも無く、業務に集中でき、それが業績に結びつくと思われる。

ミラボー橋」アポリネール堀口大学訳)
  ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ  われらの恋が流れる
  わたしは思い出す
  悩みのあとには楽しみが来ると
  日も暮れよ 鐘も鳴れ  月日は流れ わたしは残る


堀口大學の本
  黄昏の詩人―堀口大学とその父のこと黄昏の詩人―堀口大学とその父のこと
  月下の一群 (講談社文芸文庫)月下の一群 (講談社文芸文庫)
  堀口大学全集 (第1巻)
  青い鳥 (新潮文庫)青い鳥 (新潮文庫)