口をへの字に曲げて   

今西錦司

きょうは生態学者、人類学者、探検家で日本の霊長類学の創始者 今西錦司の誕生日だ。
1902年生誕〜1992年逝去(90歳)。
京都・西陣の大織元「錦屋」の長男として生まれ、幼少の頃は野山で昆虫採集に明け暮れていた。登山は中学から始めたようで、これが生涯を通じての生活の一部となる。学生時代には、日本アルプス未踏峰を含む山々を次々に踏破し、登山家として有名になった。
京都帝国大学農学部を卒業、5年後の31歳で同大学理学部の講師になるが、「講義はいやだから給料はいらん」と言って、自分の好きなことばかりに打ち込み、15年問も無給講師のままだった。そんな彼を慕って自然と若い俊英たちが集まり、毎日のように酒を酌み交わし、議論したようだ。
戦後、新しくできた教養部で動物学の教授の声がかかるが、今西は「次は人類学をやりたい」と断わったこともあり、いやなことは一切しなかったようだ。しかし一家の確実な収入は貸家の家賃だけだった。
1959年に57歳で京都大学、6年後に岡山大学の教授となり、さらに2年後岐阜大学の学長に就任した。
1969年に内モンゴルに設立された西北研究所の所長に迎えられた。
今西は「自然そのものから学ベ」と言い、ある日「冬にモンゴルの横断調査をやろう」と言いだした。「外国人で零下20度の草原を歩いたものはいない。だれも知らんからやるんや」と、未知の世界だけが今西の情熱をそそったようだ。ウマとラクダでの草原行の半年間、彼はひたすら遊牧民とウマの群れを観察した。学問でも探検でも、洞察力とリーダーシップは天性のものだった。
今西は日本の登山界、生態学、人類学、霊長類学と多方面で活躍した。独創的な発想と大胆な行動をもって、ニホンザルの生態研究を初めとして、動植物の生態についての広範な研究分野を開拓し、野外調査分野の発展に貢献するとともに、我が国の霊長類学、人類学及び生物社会学を体系化し、これを世界的水準にまで高めた。
特に、かげろうの生態研究から生み出された「棲み分け理論」は、ダーウィンの進化論と対峙する今西進化論として世界的に高い評価を受けている。
晩年には進化論と自然哲学の研究に没頭し、種社会論の立場から突然変異と自然選択によらない進化論を提唱し、また自然のありのままの受容と認知の重要性を「自然(じねん)学」として主張した。
今西は70歳代の半ば頃、「死ぬまでに千五百の山に登る」と広言していたようだ。登山そのものより、地図に自分が歩いた跡を赤線で引き、線が増えていくのを楽しんでいるようだった。足腰が弱くなっても、地元の山岳会員に押し上げられるようにして登り、頂上で万歳三唱をした。
わがままで自分勝手な今西だが、なぜ人は彼のもとに集まるのか。それはやはり人間性の高さなのだろう。そして口をへの字に曲げて言うことばにも愛情というか、人間臭さが感じられたのだろう。しかし晩年の今西に対しては、「地位と名誉を手に入れ、頑固さが前に出て堕落した」という人もいる。
企業においては、技術とか知識は必要だが最終的には「人に好かれるかどうか」である。「人に好かれる」人間性は、日々の心構えとそれを継続する努力で、徐々に形成されていくのではないか。


今西錦司のことば
  「山に対してはいつになっても初心者である」
  「進化は、変わるべくして変わる」
  「団結は鉄よりも固く、人情は紙よりも薄し」


今西錦司の本
  フォト・ドキュメント 今西錦司―そのパイオニア・ワークにせまるフォト・ドキュメント 今西錦司―そのパイオニア・ワークにせまる
  評伝 今西錦司 (講談社文庫)
  山の随筆 (山の紀行)山の随筆 (山の紀行)
  私の進化論私の進化論