自ら危険な道を選んで   

三木清

きょうは哲学者 三木 清の誕生日だ。
1897年生誕〜1945年逝去(48歳)。
今の兵庫県龍野市に三木清助の長男として生まれる。龍野中学校、第一高等学校から京都帝国大学の哲学科に進み、西田幾太郎門下の鬼才とうたわれ歴史哲学を研究した。
卒業後ドイツ・フランスに3年間留学し、ハイデッガーらのもとで実在的な存在論を研究した。1925年28歳で帰国し、「パスカルにおける人間の研究」の出版で思想界にデビューした。同年に三木の発案による岩波文庫が創刊された。
三高講師を経て1927年法政大学哲学科主任教授になった。
マルクス主義を創造的に研究・摂取し、日本にヒューマニズム思想を導入しようと、共同で雑誌「新興科学の旗の下に」を刊行、機関誌「プロレタリア科学」の編集委員長になった。1930年33歳の時、日本共産党に資金を提供したという嫌疑で治安維持法違反で起訴された。これは執行猶予となったが、一切の教職から身を引き、民間哲学者として終始した。1939年に出版した「人生論ノート」「哲学ノート」は戦地に赴く若き学徒の鎮魂の書として愛読されたという。
終戦の1945年、48歳の時、脱走した共産党員の旧友に食事と衣服を与えたことが、共産党員をかくまったという嫌疑で再度逮捕され治安維持法に触れて投獄された。三木は温厚な性格で刑務官とも良好な関係を保っていたが、誰も差し入れには現れなかったようだ。岩波書店の社員に差し入れを頼むが来なかった。終戦を迎えたが釈放されず、腎臓炎となり、刑務官らにより保釈手続きが進められている最中に豊多摩の拘置所で悲惨な獄死を遂げた。
三木は、ファシズムの時代に哲学的ヒューマニズムの立場から多数の著書、論文を発表し、良識的な知識人の代表的なオピニオンリーダーとして活躍している。戦時下に入って、彼は体制に身をおきながら時代の方向を修正しようとして、近衛文麿の昭和研究会などにも参加し、体制内反対派として自ら危険な道を選んでいる。
もし彼が戦後も生きていたら、日本の人間性心理学は言うに及ばず、戦後の思想界、文化状況はずいぶん変わったものになっていたかもしれない。
企業において、人間関係は多くの人にとって大きな問題であるが、三木のように反体制の中に、企業なら自分と性格や考え方が合わない人、反対の案の人とか部署に、飛び込んでいきじっくりと相手の意見を聴く姿勢も必要ではないか。三木の場合は無念であったが、企業の場合は解決の糸口が見つかる場合も多いのではないだろうか。



三木清のことば
  「生とは想像である。幸福も想像的なものである」
  「孤独は内に閉じこもることではない。
    孤独を感じるとき、試みに、自分の手を伸ばして、じっと見詰めよ。
     孤独の感じは急に迫ってくるであろう」
  「希望に生きる者はつねに若い」
  「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、
    幸福はつねに外に現われる。
     単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。
      幸福は表現的なものである。
       外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である」
  「もし一切が必然であるならば、運命というものは考えられない。
    偶然の意味を持っているゆえに、人生は運命なのである」


三木清の本
  人生論ノート (新潮文庫)
  語られざる哲学 (講談社学術文庫)語られざる哲学 (講談社学術文庫)
  三木清エッセンス (こぶし文庫―戦後日本思想の原点)三木清エッセンス (こぶし文庫―戦後日本思想の原点)
  哲学入門 (岩波新書)