日本の文化を変えて   

小林一三

きょうは阪急グループの創業者 小林一三(こばやしいちぞう)の誕生日だ。
1873年生誕〜1957年逝去(85歳)。
山梨県韮崎の豪農に生まれる。慶應義塾大学へ入学し、小説家を目指したこともあったようだ。卒業後、三井銀行に入りエリートコースを歩んでいたが、どうも性に合わなかったらしくサボリ気味だったようだ。
その後1907年34歳の時に銀行を辞め、箕面有馬電軌(のち阪急電鉄)の設立に参加し事業家の道を歩んだ。
私鉄経営に新生面を拓き、乗客を増やすため沿線に宝塚歌劇団、阪急百貨店、宝塚温泉、動物園を創設するなど、生活に密着しながらも実に多彩な事業展開で社業を伸ばした。
駅ビルから建売住宅、電車の中吊り広告まで現代では"当たり前"とされているあらゆるシステムを考案し、全国高校野球大会まで企画するなど、独創的で先進的なアイデアを次々に具現化した。1918年45歳で社長に就任した。
また、東京電灯会社会長、日本軽金属社長、東宝社長などを歴任し、「ビジネスを通して人々の生活を豊かにし、地域の発展に寄与する」という姿勢を貫き、「今太閤」とか「夢の経営者」と呼ばれた。
一三は、ある意味で、二十世紀の平均的日本人の生活スタイルのかなりの部分を提案した人物とも言える。第二次近衛内閣で商工相、幣原内閣で国務相に就任し、政財界で八面六臂の活躍をした。
彼は学生時代から文学を愛し、小説や詩を書き、これで生計を立てようと考えた時期もあり、文学に対する志しは事業家として名をなしたのちも忘れることはなかった。名文家の一三は、宝塚歌劇団のための多くの脚本と、「小林一三全集(全7巻)」を残している。一三が事業で成功をおさめたのは作家的な構想力にあったのではないかとも言われている。
一三の人間性の豊かさを語る時、茶人としての側面も忘れることができない。雅号は逸翁(いつおう)で、西洋の美術品を茶室に取り入れたり、土間に椅子を並べて立礼茶会を楽しめるようにしたりと、伝統の中の斬新、和魂洋才の感覚で面目躍如といった感じであった。
また一三は美術に造詣が深かったことでも知られ、すぐれた美術品コレクターでもあり、その「逸翁コレクション」は5千点にものぼっている。没後、コレクションの中から多数の重要文化財指定が出たことでもわかるように、審美眼の確かさ、目利きとしても一流であったと思われる。これらコレクションの品々と逸翁ゆかりの茶室は、かつての小林邸をそのまま残した「逸翁美術館」(池田市)で見学することができる。
一三がそのまま銀行へ残って勤務していたら、彼の才能からして上司がそれを理解できるぐらい懐が深ければ、銀行業界というか銀行が今とは大きく違った形態になっていたかもしれない。しかし彼は鉄道業界に出ることにより、鉄道のあり方にとどまらず、日本の文化を変えてしまった。
企業においても、一人の人間とそれを理解する経営陣がいれば企業は大きく変わることができる。そしてその企業がややもすると、日本や世界を変えることもありうる。一人の力というのは小さいけれど、周りの人を動かすことができれば、とてつもないことが成し遂げられる。
このくらいの気概を持って仕事に臨みたい。


小林一三のことば
  「世の中で、百歩先の見える者は変人扱いをされる。
     五十歩先の見える者の多くは犠牲者になる。
       ただ一歩先の見える者のみが成功者となるのだ」
  「そんなケチなことをするな。学生がお金がないのは当たり前だ。
     そんな学生が遠慮せず食べられるよう、ライスの値段を下げて、
       福神漬でもソースでもどんどん出してやれ。
         彼らはいつまでも学生ではないぞ」
  「金がないからと何も出来ない人間は、金があっても何も出来ない人間だ」


小林一三の本
  小林一三 知恵は真剣勝負が生む―不滅の商才に今、学ぶべきこと小林一三 知恵は真剣勝負が生む―不滅の商才に今、学ぶべきこと
  小林一三―逸翁自叙伝 (人間の記録 (25))小林一三―逸翁自叙伝 (人間の記録 (25))
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