未知の分野を切り開いて 

鈴木三郎助

きょうは「味の素」の創業者 鈴木三郎助(幼名:泰介)の誕生日だ。1867年生誕〜1931年逝去(63歳)。
神奈川県三浦郡堀内村(現・葉山町)で初代三郎助とナカの長男として生まれ、9歳で父親(享年35歳)と死別した。村の小学校を出て、14歳まで小笠原東陽の耕餘塾で儒学、漢数学を学んだ。卒業後 浦賀の酒店に奉公し商業を学んだ。
1884年17歳で二代目三郎助を襲名し、家業の米穀酒商を相続した。20歳でテルと結婚し、一攫千金を夢見て東京で米相場に手を出し、相続した財産も住居の他は全て失った。
生活苦にあえいでいたが、母ナカの知恵でこの苦難を乗り越えた。家計の足しにと避暑客相手に間貸しを始め、これが縁で大日本製薬の技師村田春齢と出会い、海岸に打ち上げられた無数の海草(かじめ)を焼いてヨードを作ることを勧められた。村田技師の指導の下、母ナカと嫁テルは見たことのないヨード作りに専念した。その頃息子の三郎助は東京で投機に熱中するありさまだった。
投機に失敗した三郎助は母ナカに連れ戻されたが、ヨードの仕事にはさして関心を示さなかった。しかし、早朝から日暮れまで母や妻が真っ黒になって悪戦苦闘する姿を見て、さすがに少しずつ心が動いたようだ。そして心機一転ヨード作りにのめり込んだ。
鈴木家が最も苦難の時に母親の計らいで横浜商業学校に入った。9歳年下の弟忠治も卒業後はヨード作りに加わり、量産による商品化が実現した。日清、日露の戦争も手伝って粗製ヨードからヨードカリ、ヨードホルム、ヨードチンキ、硝石等化学薬品の原料製造販売へと事業が拡大された。
こうした中で1905年38歳のとき、母ナカが永眠した。母の死に直面し三郎助、忠治兄弟は父母の偉大さに気づき、これまで金儲けに明け暮れしていた生活を一転し、人の為に、業界の為に、社会の為にという奉仕にも心配りする様になったようだ。そして母ナカの影響は後々まで三郎助兄弟とその子供たちの心の支えになった。
1907年40歳のとき、合資会社鈴木製薬所を設立した。翌年理学博士池田菊苗が発明し製造法特許を取得した「グルタミン酸塩」を主成分とする調味料の製造に乗り出し、特許権の共有者となり、「味の素」の商品名で製造販売した。当初から新聞広告などで活発な宣伝活動を実施して需要を拡大し、1917年に新たに株式会社鈴木商店を設立した。
大正年代の経済不況も乗り越え、国内はもとより世界に販売網を広げ、名実共に「味の素王」に成長した。この間、類似粗悪品の氾濫や、有名な「原料へび説」などに悩まされ、苦難の連続であったが、「味の素」は商品として世に認知された。彼は1931年に亡くなったが、その後1946年に味の素(株)と社名変更された。
味の素の場合、グルタミンというひとつの発明によって全く新しい商品を開発し、そのたったひとつの商品を育て、世界企業へと発展を遂げている。それは必ずしも平坦な道ではなかったはずであり、未知の分野を切り開いてきたドラマの連続であったはずだ。
最近の言葉で言えば、オンリーワン企業であるが、それを継続していくことは並々ならぬ努力を必要とする。わき目もふらず一商品に集中するこだわりには敬服させられる。


鈴木三郎助のことば
  「アタマは低く、アンテナは高く」


鈴木三郎助の本
  販売戦略の先駆者―鈴木三郎助の生涯
  自然と愛と文明と―現代機械文明を見つめて (叢書・人と文化 (8))
  友あり食ありまた楽しからずや―鈴木三郎助 グルメ対談
  続・友あり食ありまた楽しからずや
  続々 友あり食ありまた楽しからずや―鈴木三郎助グルメ対談