偉業を成し遂げた人   

岡倉天心

きょうは美術評論家であり詩人,教育家 岡倉天心(本名は角蔵、のち覚三)の誕生日だ。1862年生誕〜1913年逝去(50歳)。
福井藩士の子として横浜に生まれ、早くから英語と漢籍を学び、大学文学部では政治学を専攻した。卒業後 1884年22歳の時、文部省の京阪地方古寺社調査に大学時代の師フェノロサと共に赴き、国内外に出張し鑑画会をおこして日本の伝統美術の再認識と復興に尺力した。
数百年間、開けたことの無かった法隆寺夢殿を開扉させ、秘仏救世観音像を白日の下に晒したことは有名な話だ。
東京美術学校開設にあたり、1890年27歳のときから初代校長をつとめた。1898年、学内に彼を排斥する運動が起こり、中傷する怪文書事件を発端に東京美術学校を辞職した。
橋本雅邦とはかり、弟子の横山大観菱田春草、下村観山などを率いて日本美術院を創設した。そこでは東洋古典美術の精神を復興し、西洋絵画の写実味も加味した新日本画運動を展開した。この前後に中国、インドを旅行し、1904年以降、アメリボストン美術館の中国・日本部顧問となり、同44年秋からは同館学芸員として、日本東洋美術品購入の責任者となった。
「東洋の理想」「日本の目覚め」「茶の本」をロンドン、ニューヨークから英文で出版し、東洋の優秀性を主張するとともに日本の役割を強調した。
彼は16歳の時13歳の妻をめとっている。そのとき彼はまだ大学文学部の学生だった。彼が卒業論文を執筆中、長男を懐妊中だった妻がヒステリーを起こし、制作中の大事な卒論をピリピリに破いてしまった。仕方なく締切までの二週間をほとんど眠らずに書いたのが「美術論」だったようだ。
彼は大戦中、国家主義者の烙印を押されていた。彼の著書「茶の本」にある「アジアは一つなり」が第二次世界大戦のPRに使用されたからのようだ。彼の考えを理解したのは、弟子でもある米国人のL・P・ウォーナー博士であった。京都や奈良が爆撃されなかったのはウォーナー博士の助言によるものだとも言われているが、定かではない。
偉業を成し遂げた人の特長は、その才能は当然として、やはり人との出会いが人生を大きく変えていることである。また国内ばかりでなく海外にも目を向けていることも大きな要因だ。
企業の場合も、グローバル化が大きな流れであり、足を運んでいろんな人と話をしたり、自分の目で現状を見ることが大切だ。
これは社内の改善のときに、作業をしている人の意見を聞いたり、自分で現場をよく見ることと考え方は同じだ。


岡倉天心のことば
  「花はわれわれの不断の友である」


岡倉天心の本
  茶の本 (講談社バイリンガル・ブックス)茶の本 (講談社バイリンガル・ブックス)
  日本の目覚め日本の目覚め
  岡倉天心との出会い
  岡倉天心 (朝日選書 (274))




  
   日本美術院