計り知れない   

佐野常民

きょうは政治家で日本赤十字社を創立した 佐野常民(幼名:鱗三郎)の誕生日だ。
1822年生誕〜1902年逝去(79歳)。
佐賀藩士下村家の五男として生まれた。11歳の時佐賀藩医佐野常徴の養子となる。若いころから学問に親しみ、当時の佐賀藩の藩主に重く用いられ、栄壽の名前をもらった。藩校弘道館を経て江戸、大阪、京都で学識をひろげ、27歳のとき緒方洪庵のもとで蘭学を学ぶ。その後、長崎海軍伝習所に入り、新しい技術を習得した。
常民は、30歳のときに、外国に負けない強い藩を作るには、学問や知識だけでなく、実際モノ作りをすることだと考えた。
彼はまず日本で非常に優れた4人の技術者を集め、鉄を溶かす反射炉の研究を重ね、蒸気船、蒸気車の模型、アームストロング砲等を次々に造り、そして、日本で初めての海軍も造った。そこには船を作る工場も備え、そこで初の日本の技術だけで作った船が「凌風丸」だった。
常民は日本の科学技術の発展に大きく貢献し、日本に必要なのは、温かい心や豊かな文化を育てていくことだと考えていたようだ。
1867年45歳のときパリ万博に藩代表として派遣され、1872年にはウイーン万国博覧会副総裁となった。このとき各国に赤十字社が組織されていることを知ったようだ。以後、大蔵卿、元老院議長、枢密顧問官などを歴任。1892年70歳のときには松方内閣の農商務相をつとめている。
1877年55歳の時、熊本城を助けようとする政府軍と西郷隆盛が率いる反政府軍とが激しく戦った「西南の役」で、戦いはし烈をきわめ死傷者は激増するばかりだった。しかし負傷者に対する救護活動は満足な状況ではなく、かねてより道徳的な立場での赤十字活動に大きな関心を寄せていた常民は、「たとえ敵の軍といえども、傷つき武器を手にしない兵士は、救護することが人情である」といった内容を骨子とする救護団体の創設を当時の政府に申請した。
しかし、その考え方は受け入れられなかった。
思い余った常民は時の征討総督へ直接、救護団体創立願書を提出し、ついにその活動が許可された。この救護団体は「博愛社」と名づけられた。博愛社は1887年に日本赤十字社と名称を変更し、国際赤十字の仲間入りを果たした。彼は初代日本赤十字社社長に就任した。
彼はいろんなところで学識を深めているが、それにとどまらず自分でモノ作りを実践し、日本の科学技術の発展に貢献している。それだけでもすばらしいことであるが、日本赤十字まで作っているというのだから計り知れない偉大な人物である。
企業における改善においても、生産性をあげようとするなら、設備にばかり目を向けずに、人の作業性とか心理面にも心を配らなくてはいけない。

日本赤十字社
日本赤十字社法という法律に基づいて設置された特殊法人で、国の機関ではなく「民間の団体」である。日本赤十字社法の第4条には「日本赤十字社は社員をもって組織する」と定められている。
社員とは、赤十字の目的や事業をよく理解し、毎年一定の社資(資金)を出して赤十字を支えてくれる個人および法人のことで、いわば赤十字社の基礎をなしているものだ。
また、日本赤十字社には、世界の赤十字の中でも他に例をみない特徴があり、それは、皇室の保護のもとに誕生し、育ち、活躍していることだ。現在の定款には「皇后陛下を名誉総裁にする」ことなどが明示されている。 赤十字の標章(マーク)は、1863年の国際会議において、赤十字創始者であるアンリ・デュナンの祖国スイスに敬意を表し、スイス国旗の配色を反転させ「白地に赤十字」と決められている。
この標章は、保護の標章として戦時においては、人や建物などに付け、これらを攻撃してはならないと決められている。

佐野常民のことば
  「博愛の心を尊び、人との交わりを大切にしよう」
  「博愛の精神を忘れず 強く 明るく 和やかに 生きていこうよ」


佐野常民の本
  日赤の創始者 佐野常民 (歴史文化ライブラリー)日赤の創始者 佐野常民 (歴史文化ライブラリー)
  火城―幕末廻天の鬼才・佐野常民 (PHP文庫)火城―幕末廻天の鬼才・佐野常民 (PHP文庫)