心が及ばなかった   

朝河貫一

きょうは米国を舞台に活躍した歴史学者 朝河貫一の誕生日だ。1873年生誕〜1948年逝去(74歳)。
二本松藩士の長男として、福島県二本松に生まれ、福島尋常中学校(現在の安積高校)に入学した。
在校中の成績は全学年を通じて常にトップで、中でも英語は抜群だった。英和辞書を毎日2ページずつ暗記し、暗記するそばからちぎって食ベ、残った表紙を校庭の隅の若桜の根元に埋めたという伝説があり、朝河桜として今も残っている。また卒業式では首席としての答辞を流暢な英語で演説し参列者を驚かせたそうだ。
卒業後、東京専門学校(現早稲田大学)文学部に入学、首席で卒業後、大隈重信勝海舟らの援助を受けて、1896年22歳でダートマス大学に入学し、中学校時代に決意していたアメリカへの留学を現実のものとした。
ダートマス大学長タッカーの援助とエール大学の奨学金を得てエール大学大学院歴史学科に入学、優秀な成績をあげ、1902年には哲学博士の学位を授与され、のちダートマス大学の講師、エール大学の教授に迎えられた。
そして世界的に有名な歴史の本「入来文書(いりきもんじょ)」の著作において、日本封建制とヨーロッパ封建制との比較研究で優れた業績を残した。
1904年には「日露衝突」を刊行し、アメリカ市民に日本の立場を擁護した。翌年ポーツマスにおける日露講和会議にも出席し、条約締結のため尽力した。実際に講和条約の草稿を書いたのも博士だと言われている。現在ダートマス大学に条約締結の時に使用された机が保管されているようだ。
さらに日米開戦の危機を回避するために、昭和天皇宛のルーズベルト大統領親書の草案を書いたことでも知られ、民間人外交官としても活躍した。
博士の米国での学究生活は容易なものではなかったことが想像でき、エール大学の教授になったのは、既に64歳であり定年退職の5年前だった。助教授が54歳でありいかにも遅い。彼の研究者としての学識を疑う者はいないが、学者としての地位には決して恵まれてはいなかったようだ。
「日本人として初めて欧米の一流大学の教授になった男」という表現が博士に冠せられているが、現実には平坦ではなく長い道のりだったようだ。
最期まで、厳しい時代背景のなかで、在米日本人という孤独な現実と向き合って人生を生き抜いたようだ。74歳で亡くなった時、AP通信、UPI通信は自由主義者、平和主義者としての博士を悼み「現代日本の最も高名な世界的な学者が亡くなった」と報じたが、日本国内での報道はほどんどされなかったようだ。
当時の日本の状況からして、異国のはてにいる人のことまで心が及ばなかったということだが、実際には異国で日本のために心血を注いだ人のお陰で現在の日本があることを認識しなくてはいけない。
最近になって、母校早稲田大学をはじめ地元福島でも、国際人朝河貫一の再評価の動きが盛んになってきているようだ。
企業においても、本社を離れて地方の支店とか海外で働いている人に対する心配りを忘れてはいけない。その人たちは孤独と闘いながらも、企業発展のために日夜努力しているのだ。


朝河貫一の本
  ポーツマスから消された男―朝河貫一の日露戦争論 (横浜市立大学叢書)
  最後の「日本人」―朝河貫一の生涯 (岩波現代文庫)最後の「日本人」―朝河貫一の生涯 (岩波現代文庫)
  日本の禍機 (講談社学術文庫)日本の禍機 (講談社学術文庫)