徹頭徹尾仕遂げる   

コッホ(左)と北里

きょうは医学者であり細菌学者 北里 柴三郎の誕生日だ。1852年生誕〜1931年逝去(78歳)。
肥後国熊本県)北里村の庄屋 北里家の長男に生まれた。村の寺子屋に通い、明治維新熊本市に出て熊本医学所の開校と同時に入学、オランダ人医学者マンスフェルトの教えを受けた。マンスフェントに「東京の医科大学で学んだ後ヨーロッパで勉強し、世界の医学を学んでこそ一人前の医学者だ」と励まされている。
1875年22歳で東京医学校に入学、卒業後内務省に勤務した後ドイツに留学した。ここで「世界の細菌学の父」と呼ばれるローベルト・コッホと出会い、コッホ研究所で本格的な細菌学の研究に従事し「コッホ門下の四天王」と呼ばれた。
下宿と研究所を往復するだけと言われるほど研究熱心で、1889年37歳の時破傷風菌の純粋培養に成功、翌年破傷風免疫体を発見して、血清療法の基礎を築いた。この時代にジフテリアの血清療法をエミール・ベーリングと共同研究しているが、この研究に対してベーリングにだけノーベル賞が贈られた。
1892年に帰国、福澤諭吉らの私財を投じた援助により日本初の伝染病研究所と結核専門病院「土筆(つくし)ケ岡養生園」を設立、その後1913年には日本結核予防協会を設立した。
1914年、政府は伝染病研究所を文部省に移管してしまった。彼は「研究所は研究のみでなく、予防から治療まで一貫して行うべきだ」と主張し所長を辞任した。そして蓄財をはたき北里研究所を設立し、日本の伝染病研究の土台を築いた。1917年慶応義塾大学の医学部創設時に初代学部長に就任した。また1923年には日本医師会を設立し初代会長に就任するなど、わが国の医学および医学教育の発展に大きな足跡を残し「日本近代医学の父」と称されている。
彼は実験であれ私的なことであれ、或ることの実践に乗り出したら徹頭徹尾仕遂げるまでは止めなかったようだ。
会社の業務でもやると決めたら最期までやり通すことが成功のカギである。しかし失敗した場合の引き際を最初に決めておくことが望ましい。

★牛乳ビン事件★
土筆ケ岡養生園では、福澤先生が好んで飲まれていた牛乳を福澤邸に毎日届けていた。ところがある日、届けられた牛乳ビンの口の部分に毛髪のようなものが付着していたのだ。
それを見た福澤先生は烈火のごとく怒り、養生園事務長に手紙を送った。その手紙に「養生園が繁盛してきたのに慣れて、万事なおざりになってきたことの表れではないか。この牛乳ビンは養生園の事務腐敗の記念として、そのまま保存いたしたく、後日に至るまでもよき小言の種と存じ候」と記した。
事務長は、あわてて福澤邸にお詫びに訪れるが、福澤先生の怒りは解けず「手紙を北里に見せろ」と厳命した。翌朝、北里博士は福澤邸を訪れ、およそ3時間もの間、福澤先生にみっちりと絞られたという。
ちなみに北里博士白身も研究所員にはたいへん厳しく「この叱責に縮みあがるような者は伸びることができない、自ら反省して進む者のみが大成する」と言ったそうだ。 北里博士は、福澤先生の激しい怒りの中に、自分に対する大きな期待と愛情を感じ、その苦言の一つひとつをしっかりと受けとめていたに違いない。



北里 柴三郎のことば
  「研究だけをやっていたのでは駄目だ。
      それをどうやって世の中に役立てるか考えよ」
  「終始一貫」


北里 柴三郎の本
  北里柴三郎の生涯―第1回ノーベル賞候補北里柴三郎の生涯―第1回ノーベル賞候補
  ドンネルの男・北里柴三郎〈上〉(下)ドンネルの男・北里柴三郎〈上〉
  闘う医魂―小説・北里柴三郎 (文春文庫)闘う医魂―小説・北里柴三郎 (文春文庫)