失格であっても   

ティコ・ブラーエ

きょうはデンマーク天文学者 ティコ・ブラーエの誕生日だ。
1546年生誕〜1601年逝去(54歳)。
デンマークの大貴族の10人兄弟の2番目として生まれたが、3歳の時伯父に無理矢理連れ去られ養子にされ、過保護に育てられた。政治家になるためにコペンハーゲン、ライプチッヒの大学に進学したが、14歳のとき部分日食を見て天文学に強い関心を持ち、天体観測に精を出した。
彼の性格は、若い時から尊大かつ横暴で、19歳の時にささいなことから決闘をし、鼻を切り落とされてしまった程だ。その後の生涯を付け鼻で送る事となってしまう。
国王フレデリック2世の信頼を得て世界一の観測所をベン島に作り領主となって、20年間精密な天体観測を行った。1577年 カシオペア座のやや北西で地球に近づいた彗星の距離を測定し、彗星が天体であることを示した。天動説に当てはまらない彗星を観測したものの、地動説は信じていなかったようだ。
ベン島内では派手な生活をした上、住民に対する態度は傲慢で領主としては最低であった。次の国王の信頼も得られなかったので、フレデリックの死後、1599年神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に招かれプラハに移った。
当時はまだ望遠鏡が発明されておらず、彼が肉眼で行う天文観測の正確さは最高と定評で、その優れた技術から天体観測表を作り、1年の長さを1秒以内の誤差で測定していた事で有名である。この天体観測表を基に作成された暦法が「グレゴリオ暦」で、これが現在でも使用されている。後に「天文観測の王者」と呼ばれるゆえんである。
彼は天文学者というより、国家や社会の動向を占う占星術師であり、より正確な占星術の判断のために、緻密な天体観測を行い膨大なデータを記録したということだ。天文学占星術的なものから科学へと移り変わるきっかけを作った功績は非常に重要なものだったと言えるだろう。
彼の膨大な観測記録は死後ケプラーに譲り渡され、ケプラーの法則発見へと発展し、さらにはニュートン力学へと発展した。いわゆる星のもとに導かれた出会いだったということだ。
領主としては失格であっても占星術師としては認められていたと言うことで、いわゆるリーダーと言うよりも一科学者としての存在価値があったということだ。
企業においても、管理・監督者としては問題があっても、研究者としてはその力を大いに発揮できる人がいる。またその逆の人もいる。よって、経営者は人事面において、それをよく見極めた上で人材配置とか評価をしなくてはいけない。


ティコ・ブラーエの最期のことば
  「私の生涯を無駄だと思わせないでくれ」


ティコ・ブラーエの本
  宇宙の中心はどこにある? コペルニクス ティコ・ブラーエ (おもしろ科学史ライブラリー)
   占星術の本―運命を支配する天界の神秘学 (New sight mook―Books esoterica)占星術の本―運命を支配する天界の神秘学 (New sight mook―Books esoterica)