士魂商才   

岩崎弥太郎

きょうは三菱財閥創立者 岩崎弥太郎の誕生日だ。
1834年生誕〜1885年逝去(50歳)。
土佐藩 地下浪人の長男として生まれ、子供の頃から極貧の中で暮らした。頭脳明敏だったが、気性が荒く生来の乱暴者だったともいわれている。1855年 21歳のとき江戸に行き学問に励むが、父が投獄されたため、土佐に帰国し免罪の訴えがたたり自らも入牢させられたようだ。
1859年 25歳のとき土佐藩吉田東洋の門下生になり、認められ藩の命で長崎へ派遣されるが、藩費を浪費したうえ無断帰国し解職させられた。
1866年 32歳で長崎の土佐商会の主任となり藩の貿易に従事した頃から、彼の持ち味と時代がマッチするようになる。
彼はなかなか狡知な男で、長崎土佐商会の閉鎖のとき、樟脳代金16万両と、坂本竜馬海援隊から供託された7万両を着服したとされる。
これが後の三菱創設の基金になったとも言われているようだ。しかし彼は維新のどさくさのなか追求されずに終わっている。巨悪は善に通じる、ということで、カネをつかみ、権力を握ると、幸運は相手の方から転がり込んでくるようだ。
維新後、大阪土佐商会の設備の払い下げを受けて創立した三菱商会を海運業として設立し、台湾出兵西南の役で明治政府の軍事輸送を一挙に請け負う一方政府からの巨額の補助金の利権で三菱財閥の基礎を築いた。
1881年、三菱の最大の保護者であった大隈重信が失脚し、彼は三井家の背後にいる井上馨渋沢栄一を敵に回した。この対立はやがて「三井」対「三菱」の社運を賭けた死闘へと発展する。
士魂商才」という言葉は、侍が政府から支給された一時金を元手に商売をする、いわゆる武士の商法のことで、商いに失敗したサムライを揶揄する言葉でもある。明治の侍たちは気位ばかり高く、人に頭を下げることほど屈辱的なことはないと思っていたので、商いを始めてもたいていは失敗に終わる。けれども数少ないサムライが維新の荒波を乗り越え、事業家としてに成功しているのだ。
企業の場合もその多くは現在の延長線上に未来を予測するので、勝ち続けることは難しいが、時代の変化にうまく対応できた企業はその限りではない。
人の考え方を変えることが重要であるが、それが難しいとすれば、人の組み合わせを変えるとか、人そのものを変えることをしなくてはいけない。


岩崎弥太郎のことば
  「商売人が番頭や丁稚に頭を下げるのではない。
         商売人は金に頭を下げているのだ」


岩崎弥太郎の本  岩崎弥太郎〈上〉 (人物文庫) 岩崎弥太郎〈下〉 (人物文庫)
            樟脳と軍艦―岩崎弥太郎伝樟脳と軍艦―岩崎弥太郎伝



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