中身はアメリカ人   

津田梅子

きょうは女子教育家 津田梅子の誕生日だ。1864年生誕〜1929年逝去(64歳)。
江戸時代末期に佐倉藩幕臣の出で農学者の津田仙と初子の次女として江戸に生まれた。1871年(明治4年)明治政府から派遣された岩倉具視遣欧使節団の一行とともに日本最初の女子留学生5人の中の最年少として6歳で渡米した(船上で7歳になった)。その意図するところは日本の女性も西欧の女性と肩を並べるだけの教養を身につけさせようということだが、本音は立派な男子を育てられる母親となることをめざすものであったという。
ワシントン郊外のランメン家に住み込み、8歳の時キリスト教の洗礼を受けた。
師範学校を卒業して1882年に帰国し、華族女学校の教授になった。
しかし祖国日本に対して持っていた憧れと期待は打ち砕かれた。礼儀知らずの男たちと女性の地位の低さ、無責任な官僚組織に愕然とし、7年後再び渡米し、ブリンマーカレッジで生物学を専攻した。
そして女子教育制度などの視察・研究等行い帰国した後、一般の女性の自立をめざして、1900年36歳の時、東京麹町に家を借り「女子英学塾」(のちの津田塾大学)を創立した。
アメリカの教育とくにブリンマーカレッジの校風を受け、厳しい英語教育を中心とした個性尊重の教育により、女子教育の発展に力を尽くした。
1917年以後は健康に恵まれず、塾長代理をたてて別荘で静養した。
彼女は日本をほとんど知らずに渡米しているので、本人も自分のことを「日本人の体をしたアメリカ人だ」と言っているように中身はアメリカ人であり、帰国した時もアメリカとの大きな差異に驚き、日本の問題点もよく見えたはずだ。
企業において、同じ部署で経験を積むことのメリットはあるが、他部署に異動することは、本人の刺激にもなるし、部署間の違いがよく見えるので、的を得た改善ができるようになる。


津田梅子のことば
「万物の永遠の営みに照らしてみれば、私と私の仕事がいかに小さいものか」
「女性の地位向上のためには女性自身が能力や人格の完成を証明することだ」


津田梅子の本  津田梅子―六歳でアメリカに留学した女子教育のパイオニア (小学館版学習まんが人物館)津田梅子―六歳でアメリカに留学した女子教育のパイオニア (小学館版学習まんが人物館)
           津田梅子の社会史津田梅子の社会史
           津田梅子 (朝日文芸文庫)













    津田塾大学