果敢にチャレンジ   

田部重治と木暮理太郎

きょうは日本登山界の草分け 木暮理太郎(こぐれりたろう)の誕生日だ。
1873年生誕〜1944年逝去(70歳)。
群馬県で生まれる。子供のころから山登りを始め、大学中退後、23歳で木曾駒・秩父などに登るなど、高い低いを問わず、日本山岳会が創立されるはるか以前から、ひとり黙々と山を歩き続けていたようだ。
1907年34歳の時、東京市史編纂嘱託となり、生涯この職にありながら山を研究し登り続けた。田部重治らとともに主に奥秩父の未踏の山々にパイオニア登山を実践した。
大正から昭和にかけての日本山岳会の発展につくし、日本山岳史上「秩父時代」と言われる時代を築いた。田部重治をパートナーとして、槍ヶ岳から立山まで案内者なしの画期的な縦走を行ったこともある。日本登山界の元老として、岳人の間では「奥秩父の父」とか「日本山岳の父」として慕われている。
また「東京から見える山々」という独自の研究も行い、晩年にはヒマラヤの研究にも力を注ぎ「中央アジアの山と人」と題する研究論文を発表している。1935年、第3代の日本山岳会長に就任した。幾度か名誉会員推薦の話も出たが受けなかったようだ。
1951年、金峰山ろくの金山平に彼の記念碑が建立され、毎年秋には関係者によって「木暮祭」が行われている。
今の登山は、誰かが開拓して道がついているところがほとんどである。防寒具や登山靴などの装備もしっかりしているし、天気予報も細かくわかる時代だ。しかしそれらがほとんど無い時代に、死を覚悟して果敢にチャレンジした勇気と身体能力は驚異的なことだ。
ビジネスにおいても、予測が難しく内容も高度な場合があるが、そのような業務を成し遂げた後の達成感は、言葉では表現し難いものがある。失敗を恐れず、より高い目標を設定して、それに挑戦していく勇気と英知を持ちたいものだ。


木暮理太郎のことば
  「東京から山を見ると、高い建物と煙がさえぎり、
         とても雪嶺天を界する壮観は望めない」


木暮理太郎の本  山の憶い出 (上) (平凡社ライブラリー (293))山の憶い出 (上) (平凡社ライブラリー (293))
            山の憶い出〈下〉 (平凡社ライブラリー)山の憶い出〈下〉 (平凡社ライブラリー)












   
  記念碑がある金峰山