非常に難しい選択   

仁科博士

きょうは物理学者 仁科芳雄(にしなよしお)の誕生日だ。1890年生誕〜1951年逝去(60歳)。
岡山県の名士の4男として生まれた。幼少の頃から秀才で、大学では電気工学を学び、卒業後理化学研究所に入った。
1921年から7年間イギリス、ドイツ、デンマークの大学へ留学し多くの優秀な教授たちに出会った。デンマークで「クライン・仁科」の公式を完成し世界的に有名になった。
新しい理論を学んで帰国した後は、理化学研究所の主任研究員として宇宙線の研究をベースに多大な功績を残し、日本における新しい物理学の拠点の確立に努力した。また後進の指導にも心血をそそぎ、日本の原子生物学の育ての親、現代物理学の父といわれている。
彼は理化学研究所原子核研究室を開設し、1937年に日本初のサイクロトロンを完成させた。しかしこの設備が戦後、駐留軍の誤解によって破壊されたことは、彼にとっては耐えがたい出来事であり落胆も大きかった。
彼はアメリカの科学技術のレベルをよく知っており、日米開戦に反対していたが、開戦後は軍の要請で、仁科の頭文字をとって「ニ号研究」と呼ばれた原爆開発に参加させられた。しかし空襲でこの設備は焼失した。
1945年8月に広島に原子爆弾が投下されたとき調査団長を命じられ、それが原子爆弾だと断定して政府に報告し、大戦終結の糸口をつくった。
原子爆弾の研究開発において、日本人としての使命をとるか、科学者としての理性をとるかは非常に難しい選択である。平和な現代と戦時中では立場も世論も大きく違い、彼が原子爆弾の研究をしたことを責めるわけにはいかない。
しかし企業において、法に触れることを行ったり放置したり隠したりすることは、人として間違った行為である。いきなり内部告発と言うのも問題があるが、日頃からそのような状況にならないようにルール化したり、火種が小さいうちに解決しておくべきである。


仁科芳雄のことば
  「環境は人をつくり、人は環境をつくる」
  「人物の修養となるべき本を読むべき」
  「俄(にわか)勉強をするは大なる悪事なり」

         
仁科芳雄の本  原子物理学の父 仁科芳雄 (岡山文庫)
           仁科芳雄―日本の原子科学の曙
           科学史技術史事典
           理科を歩む―歴史に学ぶ理科を歩む―歴史に学ぶ