リーダーシップを発揮

宇都宮仙太郎

きょうは雪印ブランドを創業した「酪農の父」 宇都宮仙太郎(うつのみや せんたろう)の誕生日だ。
1866(慶応2)年生誕〜1940(昭和15)年逝去(74歳)。

豊前国下毛郡大幡村(現 大分県中津市大字加来)の養蚕農家 武原文平の次男として生まれ、後に母の実家、宇都宮家の養子となった。中津中学校に進学した仙太郎は政治家を目指し、東京への遊学をめざした。

中学在学中の1882(明治15)年16歳の時、仙太郎は卒業を待たずして東京行きを実行し、当時 高橋是清が校長を務めていた神田の共立学校に入学した。この学校は大学の予備校的なものだったが、当時政治家志望の学生は数千といる事がわかったので、政治家への道を諦めた。
仙太郎は、牛乳屋を見て、畜産業が今後必要になるのではと思うようになった。また、下宿先の隣が牛乳屋で、当時体の弱かった仙太郎はその牛乳屋に、体を丈夫にするためにも牛乳を飲むように勧めれていた。これらの事が重なり、次第に牛を飼い牛乳屋となろうと思うようになった。

1885(明治18)年19歳の時、畜産について研究すると決めた仙太郎は、北海道に渡った。函館に着いた仙太郎は札幌に町村金弥という人物が場長を務め、アメリカから招かれた畜産の専門家が助言、指導に当っている真駒内の牧場を訪れ、牧夫の仕事に使って欲しいと頼み込んだ。

体の弱かった仙太郎は不慣れな牧草積みや冬の寒さに耐えながら修行を積んだ。しかし、牛の飼養管理に物足りなさを感じていた仙太郎は、図書館で欧米の畜産事情を記した本を読み、アメリカに渡り実習を受けたいと思うようになった。そんな時、仙太郎が尊敬してやまなかった福沢諭吉の「時事新報」の記事に、小笠原島の牛飼いがカリフォルニアで畜産経営をして成功しているというのがあった。

アメリカ行きを決意した仙太郎は、1887(明治20)年の4月上旬、横浜からサンフランシスコ行きの船に乗った。仙太郎は牧場で働いたり、ウィスコンシン州立農事試験場や州立短期大学で学んだ。そして1890(明治23)年24歳の時、本場の酪農技術を身につけて帰国した。

町村金弥が支配人の雨竜蜂須賀農場で働いた後、1891(明治24)年25歳のとき札幌で牧場経営を始め、市乳の販売と民間人として初のバター製造を行った。翌年、仙太郎は10数人の乳牛業者と「札幌牛乳搾乳業組合」を設立した。
別名ビール粕組合と呼ばれ、廃棄処分されていたビール会社のビール粕を一手に買い取り、飼料として組合員に配付した。また麦ぬか(フスマ)などの飼料も卸元から一括購入して組合員に配付する共同購入も行った。

その後、牛痘製造のため牛を飼育している医師に招かれて上京し、2年ほど東京にいたが、バター製造に将来性を見出して札幌に帰り、牧場経営と同時に量り売りの市乳販売を始めた。
1902(明治35)年36歳の時、白石村上白石の20haの未開地にサイロなどをもつアメリカ式の牛舎を建て、有畜農業、酪農業の草分けとなった。当初は20頭、最も多いときは83頭の牛を飼育した。

1906(明治39)年40歳の時、牧場仲間に頼まれて再び渡米し、冬期間の短期大学に入って学び、帰国のときには民間人として初めて優良種牛ホルスタイン50余頭を輸入し、品種改良を進めた。北海道の酪農が全国的に有名になったのは、仙太郎が先進的な酪農を実践し、品種改良を行って酪農界を牽引してきたからで、白石は北海道の先進酪農の発信地となった。

仙太郎は敬愛する福沢諭吉の「独立自尊」という言葉が好きだったが、「これからは、自分たちでデンマークに学ぶべし」といって、娘婿 出納(すいとう)陽一・次女 こと夫婦をデンマークに送り出した。ことを同伴させたのは、牧場の大切な働き手である女性の仕事も改善したかったからだ。

陽一から「デンマーク農業は、一に教育、二に組合組織、三に独立農民を作る政府の方針にある」という手紙が届くと、いっそう意を強くした。1907(明治40)年、「札幌酪農組合」を設立し、組合長となりデンマーク農業の導入に務めた。1910(明治43)年に牧場に近接する豊平に「金星ミルク札幌練乳場」を設立した。
この年、仙太郎は札幌組合教会で洗礼を受けた。

1913(大正2)年は全道規模の大凶作だった。米を作っている農家でさえ餓死者が出て、草の根やワラをダンゴにして食べていた。仙太郎の牧場でも、穂のない稲を飼料としてできるだけ買い入れたが焼け石に水であり、とても厳しい冬を越せない。そこで、宇都宮仙太郎を先頭に、救済運動を開始した。毎晩、ラッパを吹いて、一軒一軒個別訪問をして義捐金(ぎえんきん)を募った。運動は札幌の教会の合同救済事業に広がり、大量の義捐金、米、衣類を被災地に送ることができた。

1914(大正3)年には北海道大学の宮脇教授の指導を得て、「北海道練乳株式会社」を設立した。当時、練乳(コンデンスミルク)はほとんどが育児用だった。
ところが1923(大正12)年に関東大震災が発生。状況が世界に伝わると、外国から練乳が救援物資として多量に贈られ、さらに物価上昇を抑えるために輸入関税が廃止されて乳製品がどんどん輸入されてきた。練乳会社が牛乳の仕入れを控えたために北海道産の売れない牛乳は川に流すほかなかった。

仙太郎ら生産者は、「農民のことは農民でやる、デンマークに習って組合をつくろう」といって、酪農家629人に出資を募り、1925(大正14)年、仙太郎を会長としてデンマーク式の共同組合活動を参考に「北海道製酪販売組合」(翌年 北海道製酪組合連合会=略称:酪連、後年の雪印乳業)を結成し、バターの自主生産を始めた。雪印バターの第1号であった。当初は品質的な問題もあり売れなかったが改善を重ね、札幌在住のお雇い外人の評判になり、やがて国内シェアの60%を占め、海外にも輸出されるようになった。

1918(大正7)年、宇都宮牧場内に定山渓鉄道が敷設され、牧場が分断された。仙太郎は牧場の一部を売り、その資金で1924(大正13)年に今の厚別区上野幌に35haの土地を買った。そこに、宇納牧場(うのう:宇都宮と出納)を開設し、3年のデンマーク派遣を終えて帰国した出納陽一にデンマーク酪農を始めさせた。道庁からデンマーク式農法実験指導農場の指定を受け、酪農青年の指導にあたった。デンマーク農業に関心をもつ実習希望者が全国から殺到した。この年から本格的なチーズ、バター製造販売を始めた。

仙太郎は、1928(昭和3)年に子供たちに農場を譲るとともに現役を退き、全国を回って酪農普及に余生を捧げた。その傍ら、デンマーク農業の神髄である教育を実践するため、1933(昭和8)年に「酪連」発祥の出納農場に「北海道酪農義塾」を創設した。現在 同塾は、大学、短大、高等部をもつ酪農学園に発展している。

宇都宮仙太郎は、政治家を目指すが早くから見切りをつけ、畜産に切り換えている。それからはいわゆる猪突猛進で、畜産・酪農に一生をささげている。これと決めたらすぐ実行に移す行動力はすばらしい。個人的にもよく勉強しよく働き、時に応じて組合を組織してリーダーシップを発揮している。

企業においても、リーダーシップは重要な能力であるが、これは人に指図する能力ではなく、何を言わなくても人がついてくる能力である。そのためには日頃からよく勉強し率先して働くことに加え、人間性の高さが求められる。


宇都宮仙太郎のことば
  「酪農には三つの徳がある。
    第一には、役人に頭をさげなくともよい。
    第二には、相手は牛だからウソをいわんでもよい。
    第三には、牛乳をいくらでものめる」 


宇都宮仙太郎に関する本
  北の広野にいどんだ人 (愛と勇気のノンフィクション)
  牛乳と日本人
  乳酸発酵の文化譜
  消費者運動そして雪印乳業社外取締役へ
  雪印100株運動―起業の原点・企業の責任
雪印100株運動―起業の原点・企業の責任消費者運動そして雪印乳業社外取締役へ乳酸発酵の文化譜