不器用だからこそ

杉田久女

きょうは俳人 杉田久女(すぎた ひさじょ、本名:久)の誕生日だ。1890(明治23)年生誕〜1946(昭和21)年逝去(55歳)。

父の赴任先 鹿児島市平之馬場町で生まれた。父は長野県松本出身の大蔵省事務官 赤堀廉蔵、母は華道池坊関西家元代理 さよ。父の転勤により、岐阜、琉球、台湾と転勤生活を重ねたのち東京に移って、1908(明治41)年 東京女子高等師範学校付属高等女学校を卒業した。当時としては開けた家庭でのびのびとした少女時代を送った。1909(明治42)年19歳で画家 杉田宇内と結婚した。

夫は6歳年上で愛知県の田舎で名家の長男に生まれた。上野美術学校(現 東京芸大)で洋画を学んだ新進気鋭の芸術家、のはずだった。宇内は久女の美しさと教養に、久女は芸術家の妻という生き方に憧れた。本人同士が望んだ上での結びつきだった。

結婚直後、宇内は東京美術学校研究科を中退して新設された福岡県立小倉中学(現 県立小倉高校)に美術教師として着任した。教育熱心な宇内は、絵の素質のある生徒を芸大へ勧め、家が貧乏な生徒には身銭を切って援助した。
芸術の中心地は東京、という思いの若妻 久女は、遠くない将来に夫が絵描きとして帰京することを信じていた。
しかし宇内は絵を描かなかった。美術学校時代にはそれなりの才能を見せたものの、職についてからはまじめな先生の枠を一歩も出なかった。
絵画への渇望を失った彼に代わって、芸術の神は妻の方を選ぼうとしていた。

結婚から7年、二人の娘の育児と家事に追われる久女は、たまたま訪れた兄の手ほどきを受けて俳句作りを始めた。翌年には、高浜虚子が子規から受け継いだ俳句雑誌『ホトトギス』に投句が掲載され、一気にこの道へとのめり込んでいった。

このころの『ホトトギス』は俳句界で唯一の権威ある発表の場であり、虚子といえば雲の上の存在だった。その虚子に認められ『ホトトギス』に推挙され、久女の名は中央でも知られていった。久女の才能は俳句という舞台を得て一挙に開花し、次々に秀句を発表するようになった。

一方、かつての美術への情熱を忘れ、田舎教師に甘んじている夫との仲はますます冷えていった。仕事一筋の宇内は自分に非があるとは思わない。彼も俳句を「チョンノマ文学」と見る口だったから、妻がそんなものにかまけて家事をおろそかにすることには黙っていられなかった。

杉田家の空気は刺々(とげとげ)しかった。娘の将来を思わなければ別れていただろう。俳句仲間との交流と、虚子に認められるいい句を作ることだけが久女を支えていた。夫との不和、句作と家庭生活の両立などに悩んでいた久女は、人に勧められて1923(大正11)年33歳の時 夫婦でキリスト教の洗礼を受けた。

以後はほとんど俳句を作らなくなったが、天性の俳人であった久女は昭和になってから再び活発に句作を行うようになった。1931(昭和6)年41歳の時、全国の名勝地を題材に新聞社が俳句を募集した。応募作十万余句、選者は虚子。久女は英彦山の句で金賞二十句に入選した。

その後の10年余りが俳人としての久女の絶頂期で、1932(昭和7)年自らの俳誌「花衣」を創刊し、また1934(昭和9)年にはホトトギスの同人にも迎えられた。
しかし久女が俳句に熱中し幸福に酔えた時期は長くなかった。

1936(昭和11)年、『ホトトギス』十月号に異例の社告が掲載された。「従来の同人のうち、……杉田久女を削除し……」
説明のない、問答無用の突然の同人除名だった。ひたすら虚子を師と慕う彼女には思い当る節はなかった。久女の強い個性が他の同人の反発を招いたことが除名の原因らしいが、決定的なものはなく現在にいたるまで謎となっている。

悲嘆と激高の中で、久女は虚子に何通もの手紙を書いたが、返事は来なかった。他の派からの誘いもあったが、「師は生涯一人。これはきっと私を試していられるのだ」と、同人外の立場から『ホトトギス』への投稿を続けた。夫は慰めるどころか「お前は虚子先生も愛想を尽かすような人間」と責める始末。
久女の俳人としての活動は急速にしぼんでいった。子宮筋腫で体調もすぐれず、いつか彼女は心のバランスまで狂わせていった。

終戦近くからは精神を病んで大宰府の精神病院 筑紫保養院に収容された。終戦前後の混乱した精神病院の経営の中で、極度の栄養失調と劣悪な環境のため衰弱し、1946(昭和21)年、腎臓病悪化のため1月21日に亡くなった。晩年は孤独で、家族はだれも臨終に居合わせなかった。

久女の句は、虚子のとなえる客観写生を超越した直感的、情熱的な句風で、東のかな女(長谷川)、西の久女と並称された。虚子が「清艶高華」と評した彼女の作品はいまも俳句史の中で輝いているし、不器用だからこその人間的な悲劇は、久女忌という厳しい冬の季語としてこれからも多くの俳人を触発し続けるに違いない。

杉田久女は、美貌と才能に恵まれた女性だったが、自分の気持ちを抑えることができず、それを表に出してしまう不器用さのために、周囲の人からはつき合いにくい人だった。

企業においても、知識や技術は誰にも負けないものを持っているが、人に対する気遣いに欠けるために、チーム活動を苦手とし、結局昇進もできない人がいる。
組織は結局 人間関係、謙虚かつ律義な行動で人に好かれることが最も重要だ。


杉田久女の作品
  「花衣 ぬぐや纏(まと)わる 紐いろいろ 」
  「足袋(たび)つぐや ノラともならず 教師妻」
  「われにつきゐし サタン離れぬ 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」
  「谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま」


杉田久女のビデオ
  映像による現代俳句の世界 第十九巻 [VHS]


杉田久女の本
  杉田久女随筆集 (講談社文芸文庫)
  花衣ぬぐやまつわる… 上 わが愛の杉田久女 (集英社文庫)(下)
  杉田久女
  俳人 杉田久女の世界
  俳人杉田久女の病跡―つくられた伝説
  大正期の杉田久女
  現代女性俳句の先覚者 4T+H―中村汀女・星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女・杉田久女
俳人杉田久女の病跡―つくられた伝説杉田久女花衣ぬぐやまつわる… 上 わが愛の杉田久女 (集英社文庫)杉田久女随筆集 (講談社文芸文庫)