私一人でやる

大倉喜八郎

きょうは大倉財閥を創設した 大倉喜八郎(おおくら きはちろう)の誕生日だ。
1837(天保8)年生誕〜1928(昭和3)年逝去(90歳)。

越後国新発田(現 新潟県新発田市)の名主 大倉千之助の三男に生まれる。17歳の時、故郷 新発田から江戸へ出、かつお節店員、乾物店主を経て1867(慶応3)年30歳の時、幕末の不穏な空気に満ちた時代にタイミングよく、神田和泉橋通に鉄砲店「大倉屋」を開業した。

戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文は官軍、幕府軍の双方から舞い込んだ。官軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉は突然、彰義隊に連行された。官軍に鉄砲を売っていたからだ。生きて帰れないと観念した大倉だが、「官軍は現金払いなので売ったまで」と商売の理を説き、九死に一生を得た。こうした体験が大倉を官軍御用達にしていった。

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自然を自分の思うように

葛飾北斎

きょうは江戸時代の浮世絵師 葛飾北斎(かつしか ほくさい、幼名:時太郎 後に鉄蔵)の誕生日だ。
1760(宝暦10)年生誕〜1849(嘉永2)年逝去(88歳)。

江戸本所割下水(現 東京都墨田区亀沢)に生まれた。その一帯を葛飾と呼んだのでそれを姓とした。父は川村某であったが、4歳のとき、幕府用達鏡師 中島伊勢の養子となった。
幼いころから物の形を移す癖があったといい、少年時代に木版彫刻を学びながら、七色唐辛子などを行商し、その日その日を過ごしていた。

1779(安永8)年19歳の時、勝川春朗の画号をもって浮世絵画壇に登場した。以降約15年間、役者似顔絵、肉筆美人画の名手 勝川春章の下で役者絵や美人画、戯作の挿絵などに筆を揮(ふる)った。
また狩野融川、俵屋宗理、住吉広行らからも画法を学んでいる。司馬江漢の西洋風の銅版画法も研究し、中国の画法も学んだ。そして日本、中国、西洋の画法のそれぞれを取り入れて、「北斎風」といわれる画風を作りあげた。

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世俗の栄達を好まない

ファラデー

きょうは「電気学の父」と言われたイギリスの物理学者 マイケル・ファラデー(Michael Faraday)の誕生日だ。
1791(寛政3)年生誕〜1868(明治元)年逝去(75歳)。

イギリス ロンドン近郊のニューイントンに鍛冶職人の3番目の息子として生まれた。一家は全部で10人もの子供をかかえ、家庭は非常に貧しかった。このためファラデーは小学校しか卒業できず、13歳のときに製本工場で見習いとして働きはじめた。

製本屋で様々な本に出会い、特に科学系の本に興味をもち、無我夢中で読んだ。そのとき、同じ製本屋でファラデーと同じく見習いで働いていた画家の卵マスケリエがファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデーは絵を描くのが非常に上手くなり、科学系の本にある実験装置などを見事に描き写した。

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鋭敏な感覚による

菱田春草

きょうは早世した日本画菱田春草(ひしだ しゅんそう、本名:三男治 みおじ)の誕生日だ。
1874(明治7)年生誕〜1911(明治44)年逝去(36歳)。

長野県伊那郡飯田町(現 飯田市)に士族 菱田鉛治の三男として生まれる。少年期から絵を描くことは好きだったようだが、その頃には、天賦の才は彼の裡に潜伏したままだった。
1889(明治22)年15歳の時に上京し、結城正明に師事し狩野派の絵画を学んだ。

その後、1890(明治23)年 東京美術学校で校長 岡倉天心・橋本雅邦・川端玉章らの指導を受けた。寡黙で理知的な人柄からは想像できないような強い意志を持って制作に取り組んだ。1895(明治28)年の卒業時、卒業制作に「寡婦と孤児」を描いて最高点を得た。

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比すもののない人生舞台

立石一真

きょうはOMRONを創業した「前衛企業家」 立石一真(たていし かずま)の誕生日だ。
1900(明治33)年生誕〜1991(平成3)年逝去(90歳)。

熊本市新町三丁目で陸軍の記念品用の伊万里焼盃を製造販売する立石熊助・エイ夫妻の長男として生まれた。幼時は恵まれた生活だったが、新町小学校一年生の時、父 熊助が亡くなるとともに家業は衰退、母 エイは下宿屋を開業、幼い一真も家を助け新聞配達を始めた。
この時に貧の辛さと働きの大切さを知り、同時に祖母 幸の躾をうけ、戸主の責任と自覚、強い独立心が培われた。

幼時の一真は、肥後もっこすさながら、きかん気のやんちゃ坊主で、「よく遊び、またよく遊んだ」。1913(大正2)年4月、熊本中学(現 県立熊本高等学校)に進学、勉強に野球にと青春を燃焼、四年生のとき家計も考えて憧れの海軍兵学校に挑戦、最後の身体検査で不合格となった。五年生の学力基準を自習で修得した体験は、学力の向上はもちろん、やればできるの自信につながっている。

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要素技術が詰まっている

吉田忠雄

きょうは世界のファスナーYKKの創業者 吉田忠雄(よしだ ただお)の誕生日だ。
1908(明治41)年生誕〜1993(平成5)年逝去(84歳)。

富山県下新川郡中島村(現 魚津市)の貧しい家に生まれた。1923(大正12)年、魚津町立魚津尋常高等小学校高等科を首席で卒業、兄のゴム長靴屋を手伝っていた。1928(昭和3)年20歳の時、「二度と戻らない」覚悟で、貿易商になる夢を胸に上京。日本橋の古谷順平という人が経営していた、中国の陶器を輸入する店「古谷商店」で働くことになった。

どこに何の品があるか分からない…。吉田が働き始めた頃の古谷商店の倉庫は、ほとんど整理整頓されておらず、商品の数も分からないという状態だった。
そこで倉庫をすっきりさせようと考え、倉庫の物品の整理を始めた。整理をしながら、数多くの商品の名前を覚えた。

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晩年まで筆力が衰え

藤島武二

きょうは日本の近代洋画を発展させた洋画家 藤島武二(ふじしま たけじ、幼名:猶熊)の誕生日だ。
1867(慶応3)年生誕〜1943(昭和18)年逝去(75歳)。

薩摩藩(現 鹿児島市)に藩士の三男として生まれる。長らく続いた武家社会が終焉し、元号が「明治」へと変わる前年であった。幼年時代から北斎漫画や油絵を模写し画才を発揮した。僅か10歳で家督を継ぎ、苦しい生活の中で鹿児島中学に進むが、その間 四条派の絵師 平山東岳に日本画を学んだ。1884(明治17)年17歳のとき上京し翌年 川端玉章の門に入った。

限られた画題を制限の多い技法で描かねばならないこの世界に嫌気がさして、1889(明治22)年22歳の時、曽山幸彦の塾に移り、洋画家を志した。また、中丸精十郎、松岡寿の指導も受けた。
1893(明治26)年26歳のとき三重県の中学校で教職に就いた。

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